エムナマエのロゴ
原稿用紙プライベート盲導犬アリーナ日記
ギャラリー新着情報サイトマップホーム英語
 
  

■ ボクとキンさん − イラストレータ石原均追悼展を前にして −

◆ キンさんとの出会い
 紙粘土による凸凹イラストレータ、石原均。彼のことは東君平さんから聞いてはいた。
「エム。いつか紹介するよ」
 ところが、君平さんの生きている間にその約束は実現されなかった。
 初めてキンさんに会ったのはやなせたかし先生の星屑望年会。君平さんもキンさんも、そしてボクも詩とメルヘン組であったのだ。
「初めまして。エムさんのことは、いつも君平さんから聞いてましたよ」
 声をかけられて、ボクも嬉しくなる。石原均氏のユニークな仕事は失明前のボクも目にしていた。その日からボクらは急速に親しくなった。天上の君平さんも、その様子を見下ろしていたに違いない。

◆ キンさんのヒューマンネットワーク
 イラストレータ石原均は友人から愛されていた。そして、その交友範囲も広い。彼のおかげでカメラマンの青木岳志さんやイラストレータのひこねのりおさん、アニメータの森まさあきさんとも懇意になれた。歌手の西島三枝子さんとも共通の友人で、これら交友のルーツは東君平さんなのである。

◆ ニューヨークの奇跡
 ユーチューブでも紹介されている通り、ボクの人生最大の不思議、最高の奇跡がニューヨークで起こる。エム ナマエがジョンレノンの次に、全米最大のベビーアパレルメーカーに社外アーティストとして採用されたのである。
 この奇跡のきっかけを作ってくれたのがキンさん、石原均。彼は、いかなる保証も約束もないのに、ニューヨークで個展を開くエム ナマエをサポートしたいと、カメラマンの青木岳志さんを誘って、ニューヨークに駆けつけてくれたのである。
 開場は高級ホテルで有名なエセックスハウス。セントラルパークの対岸には、ジョンレノンが愛したあのダコタアパートがある。こんな高級ホテルを開場にできたのはJALのサポートがあったからだ。けれども、開催時期には売却され、無料での開場使用は果たせなかった。
 当時、TBSのニューヨーク支局の記者だった下村健一氏やJALのスタッフが現地で応援してくださった。糖尿病患者のための雑誌「さかえ」の田辺靖始編集者の夫人である江里子さん親子や、その友人の渡辺茂子ご夫妻をはじめ、大勢の友人知人がニューヨークツアーを組んで、個展会場の設営に尽力してくださった。けれども、展覧会設営のプロフェッショナルは一人もいない。経験者はただ盲目のボクだけ。その現場へ石原均さんと青木岳志さんが駆けつけてくれたのである。

◆ 奇跡を呼び込んだポスター
 キンさんの仕事は見事だった。東京であらかじめ作っておいたエム ナマエ作品のカラーコピーを現場でコラージュしていく。それをサポートするのはニューヨーク在住のキンさんの友人のデザイナー。もちろん青木岳志さんも映像のプロであるから、驚くべき速さで展覧会の告知ポスターが出来上がったのだ。
 ボクは個展会場のことばかりが頭にあって、それを告知する方法をまるで考えてはいなかった。高級ホテルとはいえ、個展会場は二階フロアの奥。目前がセントラルパークの緑という恵まれた展望ではあっても、展覧会開場としては実に地味である。それも当然、そこはギャラリーではなく、宴会場、つまりボウルルームであったのだ。ギャラリーでないから、もちろん展覧会場としての告知も準備はされない。ホテルの支配人はフランス人で、そこまでの配慮はしてはくれなかったのだ。
 もしも石原均、青木岳志コンビの作ってくれたポスターがなかったら、と考えると今でも背筋が寒くなる。

◆ 奇跡が歩いてやってきた
 個展オープンの前日、ボクは徒歩でダコタアパートにいき、そしてセントラルパークのジョンレノンメモリアル、ストロベリーフィールズに個展案内状を静かに置いた。ジョンへ愛をこめて、とサインをして。この様子はユーチューブで見られるはずである。
 奇跡が自分で歩いてきてくれたのは個展の二日目。ダウンタウンの透析病院から戻ってくると、下村健一氏が少しエキサイトした感じで、こう告げたのである。
「エムさん、すごいことが起きましたよ」
 ジョンレノンの作品をベビーアパレルにアレンジするため、オノヨーコとの契約にニューヨークを訪れた全米最大のメーカーの副社長がボクの作品を目にとめた、というのだ。
「ええっ。本当に奇跡は起きたんだ…」
 このアトランタに本社を置く全米最大、1861年創業のベビーアパレルメーカーの副社長は、オノヨーコとの交渉に出かける途中、ホテルのロビーに貼り出してあったキンさん特製のポスターを見て、会場を訪れた。そして、ジョンレノンの次はエム ナマエであるとその場で決めたらしいのである。そのとき、彼はボクが全盲であることも、日本人であることも知らなかった。

◆ キンさんとジョンが重なった
 昨年の師走、キンさんがいつ亡くなったかは誰も知らない。ボクの公開日誌にもあるように、キンさんは独りで遠い空へ旅に出たからだ。そして、親友の青木岳志さんの願いで、その命日が釈尊と縁のある日、12月8日とされた。その知らせを受け取ったとき、ボクの中で稲妻が走った。12月8日はジョンレノンの命日でもあるのだ。一瞬にして、ボクの中でキンさんとジョンレノン、ニューヨークが重なった。

◆ あと一週間
 2009年2月23日、東京は神田神保町の檜画廊で石原均追悼展が開かれるのは、このサイトでも告知してある通りだ。そして、そのオープニングまで、あと一週間。夕方5時からのオープニングパーティーでは、彼のユニークな作品たちに囲まれながら、石原均の凸凹な人生をみんなで語り、思い出したい。この記事をご覧になって興味を抱かれた方は、ぜひとも参加し、この貴重な機会に彼のユーモアにあふれた作品に触れて欲しい。
※ キンさんの最後の作品はエム ナマエのリリックと、青木岳志カメラマン撮影による愛育社刊行の絵本「道」である。開場にはその作品も展示され、また絵本も購入できるはずである。2009/02/16

■ 石原均 追悼展  『いろいろ凸凹ありました。』

会期:2009年2月23日(月)〜28日(土)
   午前11:00〜午後6:30(最終日は午後5:00まで)
   ※23日午後5:00よりささやかなオープニングパーティを催します。
場所:檜画廊
   千代田区神田神保町1−17(すずらん通り)  .03-3291-9364
   
会場の都合により、お花はご遠慮させていただきます。
尚、故人を送る個展を皆様のお力で実現いたしたく、会場ではお志を受け付けております。お志は個展費用に充てさせていただきます。お問合せ:石原均追悼展 実行委員会事務局 .090-8593-3348(小林潤子)

 

 

  Copyright © emunamae