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★ 21世紀に復活したマークX エンジン快調

■ 渡辺茂男先生と「みつやくんのマークX」
◆ 1972年 ロンドン
 ボクはしがないバッグパッカー。大きな荷物を背負って、3ヶ月をかけた欧州大陸鉄道横断の夏休みに出発したのである。
 まずは羽田から学生生協チャーター便で16時間、アンカレッジ経由、ヒースロー。そして一日10ドルの予算で2週間、ヒッチハイクでUKを周遊したのだった。
 青空の美しかったのはスコットランド。ボクはネス湖の湖面に走っては消える不思議な波紋を今でも克明に記憶している。
 当時ロンドン在住の渡辺茂男先生のお宅を訪ねたのは、ユナイテッドキングダム周遊の最終目的地、リバプールからロンドンへ戻った直後だった。そしてボクは疲れ果てていた。

◆ ロンドン郊外
 地底の果てまでも続くかと思われた地下鉄。地上に出ると、周囲を見回す。片手には1枚のメモ。そこに記してある住所だけが頼りだった。そして、もうひとつの手には、どんな小さな地名も漏らさない分厚いロンドン地図帳が握りしめられていた。
 渡辺先生ご一家は暖かくボクを迎えてくださった。その夜の食事の豪華だったこと。冷奴、味噌汁、漬物、納豆、焼き魚。食べ物のまずいことでは定評のある英国にあって、これは考えられないほどの贅沢な食卓である。ボクの頬っぺたは、地球温暖化によって崩れ去る氷河のように垂直に落ちていった。
 当時、ボクは慶應義塾図書館情報学科、渡辺茂男先生のクラスで学んでいた。絵本作家になる。在学中に目標を定めたボクにとって、渡辺茂男先生はあたかもスコットランド荒野にあって、くっきりと行方を照らすシグナルの如き存在であったのだ。
 何日間、先生のお宅にお世話になったのか、今はよく覚えていない。けれども、UK周遊の旅からロンドンに戻り、ドーバーへ旅立つその日まで、ボクは先生の食卓にへばりついていたのである。

◆ ご一家との時間
 ホスピタリティーという言葉がある。ボクはその語感を渡辺先生ご一家によって初めて具体的に体験した。ボクにとって先生は雲の上の存在であったが、奥様はどこまでもウェルカムで、お料理上手。ボクはすっかりいい気になっていた。長男の鉄太君は美しい少年、次男の光哉君は可憐な少年であった。ボクは彼らとすぐに親しくなれた。というか、彼らがボクと遊んでくれたのだ。
 ボクは乗り物マニアだった。欧州放浪旅行の目的が世界最大のホバークラフトでドーバー海峡を横断することや、トランスユーロピアンエクスプレスで鉄道で国境を超えていく旅を経験すること、各地に残る蒸気機関車の撮影であったくらいだから、あきれるほどのマニアである。だから、「謎の円盤UFO」の迎撃ロケット戦闘機、インターセプターのミニチュアに夢中になっていた鉄太君とはたちまち意気投合。というのも、ボクもそのTVシリーズにはまっていたからだ。
 ボクは想像する。熱く乗り物談義をする貧乏大学生とふたりの少年を観察して、渡辺先生はお心を決められたのではないかと。
「そうだ。この学生画家にあのスーパーカーの絵をかかせてみよう」
と。帰国して、次の年が明けてすぐ、ボクは先生のお宅に呼ばれた。そして、「みつやくんのマークX」のテキストをいただいたのである。

◆ 渡辺茂男先生とボク
 ボクは慶應義塾法学部と偽って、マンガクラブに入学した。そして、在学中になんとかプロになろうと計画を練っていた。ところが、大学生になってすぐ、ボクの目標は漫画から絵本に変わっていた。それは渋谷西武デパートでの絵本原画展を見たこと、世界文化社でのアルバイトで美しい絵本を目の当たりにしたことに原因がある。
 やがて、慶應義塾図書館情報学科に渡辺茂男先生という偉大な教授のおられることを知る。日本児童図書の大いなる啓蒙家、石井桃子、瀬田貞二、渡辺茂男。この三人を語らずして、戦後の日本児童図書を語ることはできない。
 法学部の学生ではあったが、ボクは先生の授業「児童文献」を選択した。そして大学入学以来、初めて特Aをいただいたのである。
 当時からエム ナマエがプロのイラストレータであることを知った先生は、ボクのつまらない個展にも足を運んでくださった。そして過分な評価をいただいたのである。翌年、先生は米国と英国での教鞭のため、日本を離れられた。ボクが先生のお宅に避難できたのはそのおかげなのである。

◆ 「みつやくんのマークX」
 原稿を一度読んだだけで、ボクの中には世界ができていた。そして、物語にあるように、ボクもすぐにマークXの設計にかかったのである。主人公は見えている。そのモデル、光哉君はボクの友だちであるからだ。
 乗り物絵本のトップランナーである渡辺先生がご覧になるのである。ボクは緊張していた。けれども楽しんでもいた。このまま造れば、本当に空を飛ぶように、そして水面を滑るように、ボクは紙の上に一台のスーパーカーを出現させたのである。

◆ 最初の単行本
 1973年、春。まだボクは学生だった。それなのに、単行本の仕事をさせていただいたのである。「みつやくんのマークX」は評価された。売れた。おかげでボクは絵本のプロ集団にも加えていただき、仕事も増えていったのである。

◆ 悲しい知らせ
 年月が過ぎていく。世の中の流れが変わっていく。そして意外な知らせ。「みつやくんのマークX」が絶版になる。これこど売れているのに、ちっとも古くないのに、どうしてだろう。この幼年童話シリーズそのものが古くなってしまったせいなのか。それとも出版社の事情なのか。ボクには分からない。けれども、あきらめる他にボクにできることはなかった。
 それでも、ボクは密かに「みつやくんのマークX」の復活を祈っていた。ボクには自信があったのだ。マークXは古くない。たとえ21世紀になろうとも、乗り物の好きな心に変わりはないはずなのだ。
 そして、マークXの復活を祈っているのはボクだけではなかった。2007年、ボクは新栄堂の柳内崇社長に出会うのである。

◆ 21世紀にも通用したマークX
 復活した「みつやくんのマークX」は1973年の初版当時と変わらないペースで売れている。それは、自信があると豪語するボクにも驚くほどの勢いなのだ。でも、当たり前かもしれない。乗り物絵本の第一人者、渡辺先生の筆なのである。ボクの絵も、その筆によってこの世に出現した。そしてまた、21世紀の子どもたちも、同時に、1970年代に子どもだった人たちにも、マークXの復活は歓迎されたのだ。
 ただひとつ、残念なのは、ここに起きている事実を渡辺茂男先生に知っていただけないことである。先生は「みつやくんのマークX」の復活の前年、別の世界へ旅立たれたからである。ボクは恩師、渡辺茂男先生とたった一冊の本しか残せなかった。けれども、ボクの情熱はこの一冊に集約されている。この世界に「みつやくんのマークX」がある限り、渡辺先生もボクも永遠なのである。
 最後に「懐かしい未来」という拙文を「みつやくんのマークX」のあとがきとして許してくださった渡辺鉄太氏と柳内崇社長に心よりの敬意と感謝を捧げる。2009/07/23

 

 

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