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◆ 真心で祈るとき、不思議な偶然が訪れる

 昭和五十八年の夏、医師から失明を宣告されたとき、正直いってそのまま受け入れることはできませんでしたね。信じられなかったんです。画家の自分が失明なんかするはずがないってね。

 原因は糖尿病でした。当時は珍しかった若年性の二型です。一般的には成人病とされた中年以後の病気だったんですが、遺伝のせいか、それとも多忙だった仕事からくるストレスのせいか、三十四歳の自分は長いことこの病気にかかっていた。とにかく発見されたときが失明宣告だったわけです。いくら手遅れとはいえ、まさかこの自分がずっと糖尿病にかかっていて、もうすぐ目が見えなくなるっていわれて、とてもそのまま受け取れることじゃありませんよね。

 学生時代からイラストレーターをやっていて、多忙だったんです。二十一歳から三十四歳まで、もう夢中でしたね。子供の絵本をやりたくて画家になって、やっと本格的な絵本作家として認められるようになって、面白くて仕方のない頃だったから、ショックも大きかった。視力はかなり以前から低下していました。勿論、町の眼科医にはかかりましたよ。で、アレルギーだといわれたんです。子供のときからアレルギーといわれてきたんで、そのまま信じた。それが発見を遅らせた最大の原因でしょうね。

 当然すぐに入院です。いやでしたね。仕事は気になるし、食事はまずくて貧しいし。でもとにかく、自分が糖尿病である事実を受け入れるのが先決でした。なんでなんだ。どうしてなんだ。自分でインスリンの注射を打ちながら、運命を呪う毎日でしたよ。

 でも、真面目な闘病生活のおかげで、視力は劇的に回復したんです。仕事に復帰できるくらい。糖尿病のコントロールも安定したし、それで退院でした。目玉にストロボをバチバチやられたり、レーザー光線を打ちこまれたり、眼科ではあれこれ処置をされて、失明の恐怖がなくなったわけじゃありませんでしたけれど。

 退院したら、すぐに仕事です。絵本を次々に仕上げて。でも、一年も続きませんでした。網膜で大出血があったんです。そして再入院。これがつらかった。目玉に直接注射されたんです。痛いのは当たり前。それより、ものすごい恐怖でしたよ。けれど、失明を防ぐためにはどんな我慢もできました。ぼくは画家なんだ。失明なんかしてたまるもんかってね。

 半年の入院で視力は急激に低下しました。世界が霧の彼方に消えるような、色と光が遠くなるような、たまらない不安と孤独で、自分だけが不運で不幸なんだと、生まれてきたことにさえ否定的になっていました。死ぬことも考えました。

 昭和五十九年の暮れ、退院しました。要するに匙を投げられたんです。希望はありません。ただ失明を待つだけなんですから。それまで築いたすべての物が音をたてて崩れ、未来もない。どうして自分はそこにいるんだ。どうして自分は生まれてきたんだ。こんな運命が待っているのなら、生まれてくるんじゃなかった。絶対的孤独ってやつですよ。そんな気持ちで年が明けて、ある晩ぼくは眠れないままに考えていた。もしも神や仏がいるのなら、この運命に解答を与えてみよ、ってね。そして夜明けがきた。日の出に空がピンクに染まって、瞬間ぼくの中で金色の光が爆発したんです。そして信じられないことですが、見事な答えが心で響いていたんです。それは超越的存在からの具体的な解答でした。宇宙は慈しみによって現れた。すべての存在は平等に愛されている。このぼくも、小石も草木も。そして運命までもが。生まれてきてよかった。それは本物の目覚めでした。

 その朝からすべてが新しくなりました。否定的な気持ちが消えて、すべてを感謝で受け入れることができるようになったんです。本物の信仰が芽生えたんでしょうね。それからは簡単でした。翌年、完全に失明し、同時に人工透析を受けるようになっても、積極的に生きることができました。

 絵が駄目なら文筆で表現をしよう。で、自分では読めない文字で作家に挑戦したんです。失明してすぐに童話を書いた。最初の作品「UFOリンゴと宇宙ネコ」は平成元年に児童文芸新人賞をいただきました。それだけじゃないんです。平成二年、失明してから知り合った看護婦のきみ枝と結婚することが決まり、その記念に彼女の前でイタズラに絵をかいてみた。それが彼女を驚かせ、喜ばせただけじゃなく、世間に認められたんです。特別な苦労をしたわけでもないのに。

 個展を開き、画集を出版し、マスコミにも取り上げられた。サンリオ美術賞という名誉までいただいて。とても不思議な気分でした。見えていた頃にはかなわぬ夢だったことが、失明してからは面白いように道が開けていくんですから。

 平成十年の秋、ニューヨークで個展を開いたんです。そしたら奇跡的に全米最大手の子供服メーカーから認められ、世紀末のミレーニアムにぼくは子供のための総合コレクションで全米デビューを果たしました。それも創作という世界へぼくを導いたジョンレノンのふたり目のアーティストとして。真心で祈るとき、不思議な偶然が訪れる。そうは思っていました。でも、ぼくとジョンの製品が並んでいる。こんな奇跡と偶然ってあるでしょうか。ぼくにはどうしてもジョンの魂が導いてくれたように感じるんです。ジョンの魂が肉体を離れたとき、ぼくは祈りました。地球的な愛と平和を実現しようとしていた彼の百万分の一でもいいから、その仕事を引き継ぎたいってね。おそらくその願いが天に通じたんでしょう。

 宇宙の恵み、仏の慈悲、神の愛。それらに感謝し、それらに生かされていることを本心から受け入れることができたなら、人生は不思議で愉快で自由自在。不幸は幸せへのステップだし、困難は自由への扉となってしまう。ぼくの作品は北米大陸で記録的売れ行きだそうです。失明という壁がなかったなら、こんな人生の展開もなかったでしょうね。


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