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◆ 主人公として、脇役として

 失明するとわかったとき、自分の未来がどうなるのか不安でたまりませんでした。目の見えない人生なんて想像もつかなかったからです。見える人間にとって、見えない世界はまるで未知のものです。たとえ一瞬だけ目をつぶってみても、それは見えない世界を経験することにはなりません。閉じたまぶたを再び開くことによって、直ちに見える世界に戻れるからです。本当に見えない世界とは、それとは全く別のものなのです。  さて、実際に失明してみると、見えない暮らしに慣れるのに、思ったほどの時間はかかりませんでした。見えていた頃と同じような気持ちで顔を洗ったり、歯を磨いたり、電話をかけたり。そして気がついたときには作家として仕事をし、結婚し、画家にも復活し、失明以前よりも多忙な生活を送るようになっていました。見えないことが当たり前になっていたのです。

 ぼくは失明を不幸な運命としてではなく、人生を面白くするためのスパイスだと考えています。みんなの予想をくつがえし、常識にチャレンジしながら生きることは愉快なことです。見えないのに、どうしてそんなことができるのですか。わかるのですか。こういう質問に、こともなげに答えるのは一種の快感でもあります。ただし、こうした人生を実現させるための条件があります。それは、自分が自分の人生の主人公である、ということです。

 障害者として生活を始めたとき、ぼくには両親のサポートがありました。というより、サポートがなければ生きてはいけなかったのです。それまで、ぼくは一家の主導者として暮らしてきました。ところが、家庭も崩壊し、仕事も財産もすべてを失ったぼくを、両親は主体者としてではなく、保護すべき者として扱ったのです。親としては当然の理解かもしれません。でも、ぼくはその状態に耐えられなかったのです。

 痛みを経験しなければ、生きる方法も手にすることはできません。しかし、両親としては我が子の苦痛を黙って見てはいられないのです。そこに問題が生まれます。保護することに神経がいくあまり、主体としての当事者の存在を忘れがちになってしまうのです。ぼくにとっての最大の課題は、障害者として生きることより、まず両親から独立することでした。

 この窮地を救ってくれたのが現在の妻です。彼女と暮らし、彼女がぼくを主役として認めてくれたおかげで、ぼくの才能は再び開花しました。現在、表現者としての人生を実現し、そこを生きていられるのはすべて妻のおかげです。

 ぼくの人生において、妻は徹底的に脇役を演じてくれています。そのおかげで、ぼくは主役におだてられ、主体的な表現者として生きることが可能になっているのです。そして、ぼくは考えています。脇役として生きている彼女こそ、本物の主人公ではないかと。彼女は輝いているはずです。ふたりで過ごすとき、ふたりで存在することが、お互い主人公とし、その人生を実現させているのだと実感することがあります。優れた脇役は、ときとして主人公より輝くことがあるのです

 

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