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◆ 心の栄養 栄養士会のための講演原稿

 以前から不思議に思っていることがある。草ばかり食べている牛が、あんなに立派な角があったり、栄養たっぷりの牛乳やおいしいステーキを提供してくれている。肉ばかり食べているはずのライオンなのに、ビタミンC欠乏に悩んでいるらしい噂は聞いたことがない。これらは専門家にとっては、いとも簡単に説明可能な不思議なのだろうが、ぼくのような門外漢にとっては、はなはだ謎めいた話題なのである。

 医療従事者の細分化された専門知識に「生命」はどう映っているのだろう。研究や分析、説明の対称なのか。それとも永遠の謎なのか。先進医学は遺伝子操作で新種の生命やクローン生物を誕生させ、臓器移植を実施しているが、無生物からバクテリア一匹誕生させたことはない。医学は優れた技術ではあるが、神技にはまだまだ遥かに遠いような気がする。

 つい最近、先進医学を研究している学者がラジオで語っているのを聞いたことがあるが、それによれば、どうやらDNAには死のプログラムが最初からなされているらしい。そればかりではない。驚くことに、死後のプログラムまでがインプットされているというのだ。じゃあ、人間は来世、つまり「あの世」のことまで決められているのか、と早合点してはいけない。死後のプログラムとは要するに、死者を構成していた肉体や細胞がどのように分解され、それらを作っていた元素に戻るまでの優先順位が決められている、ということらしい。植物も動物も、「命」あるものはいずれ滅する。それらは微生物によって土に戻っていく。その土は「種」の指令で、太陽エネルギーによって水と空気と合成され、植物に構成されていく。その植物群は草食の生き物を育む。そして、その生き物を肉食の生き物が捕らえて食べる。すべての生き物は、これら食物連鎖の中で生かされている。そして死。再び土。さあ、一体この生命の循環を誰がプログラムしたのだろう。何がこの秩序を維持しているのだろう。どうやら、地球という生命圏は循環する生命そのものによって維持されているらしい。そして、人間が、その循環する「命」の中で生きるとは、どういうことなのだろう。

 この世紀末に人類は増大する欲望の中にいる。すべての国家の最大目的は経済戦争に勝利することにある。経済の発展。資源の開発と維持。環境の保全。これら三つの課題は果たして共存できるのか否か。三つのジレンマ、トリレンマに幽閉され、苦悩する世紀末の人類社会。個人にとっても、社会にとっても、「生きる」ということは単なる生物学的減少ではない。その本質に迫ることこそ、新世紀における人類の化学と哲学の課題となるだろう。

 「独立自尊」という思想がある。この独立とは様々な欲望からの自立を意味する。自律といってもよい。他人と比べないことである。隣人がどんな買い物をし、どんな暮らしをしていても構わないではないか。独立自尊を時流からの独立と位置付けしてもよい。個人が独立してこそ、国家も社会も独立する。独立した意識と自律が可能な社会こそが人類を希望へと導いてくれる。足るを知ることこそ、幸せへの近道なのだ。足るを知る哲学と思想が針の穴になりつつある未来への出口となるだろう。

 さて、ぼくらが生存を許されている、この地球や太陽を内包する全宇宙的環境が貴重な食材を提供してくれている。天の恵みである食材を、いかに大切に、そして巧みに調理し、おいしく食べるかは栄養学を納める以前の問題だろう。おいしく食べられてこそ栄養となる。余談になるが、最近の病院食は栄養学や調理師のプライドより、経済学が優先されているのではないか、という疑いを感じている。いろいろと事情はあると思うが、献立が病院の都合によって左右されるようでは悲しい。おいしく食べることは、天への感謝の表明であり、また我々の勤めなのであるから。そして、それ以上においしく食べることが我々の栄養となり、毎日の暮らしと心に元気を与えてくれるのである。

 友人の僧侶に、人生とは三つの命を生きることだと聞かされた。それらは生命、寿命、使命。この与えられた「生命」を費やし、許された時間「寿命」の中で、いかなる「使命」を果たすか。これが人生である、というのだ。だが、ぼくはそれに敢えてもうひとつの「命」を加えたい。それが「運命」だ。人間社会は不平等を作っているが、しかし運命は突然、誰にでも平等にやってくる。その運命が、いかなるものかは別の問題としても。いずれにせよ、個人はこの「運命」をも引き受けなくてはならない。その上で人生は完結するのである。人生とは四つの命の総合体なのだ。

 生きる以上、誰でも健康でありたい。しかし、健康を維持することと、生甲斐の両立と両者のバランスを取ることは容易ではない。健康ブームの昨今で、命よりも健康が大事というおかしな傾向まで囁かれる。自分が健康体であるか否かが、自分が現在生かされているという事実よりも優先されている。常に健康であるという保証が欲しいのだ。病院のロビーにいくと、高齢者のグループが談話している。
「最近、お見かけになりませんでしたが、心配していたのですよ。もしかしたらご病気ではないかしらって…」

 冗談ではない。病気だから病院にいくのであって、健康な人間に病院は必要のない場所だ。予防医学という考え方はあっても、それにしても予防のし過ぎである。以上は、ぼくが実際に病院で耳にした会話のほんの一部である。

 誰でも死ぬときは死ぬし、死なないときは死なない。酒も煙草もやめた。早寝早起き。毎朝必ずジョギング。規則正しい三食と適切なカロリー。と、どんなに健康に留意している人でも、一瞬にして交通事故で死ぬときは死ぬ。有名な映画監督、市川崑氏みたいに、片時も口から火のついた煙草が離れない人でも、元気に長生きをし、立派に現役を維持している。健康であるか否かより大切なことがあるような気がしてならない。それは、その人間がどう生きているかである。健康なのに元気のない人もいる。病気なのに、いきいきと暮らしている人もいる。この違いはどこからくるのだろうか。結論には少し早いが、生き方の違いは死に方への覚悟の違いからきているのかもしれない。よく死ぬことこそ、よく生きること。よく生きることこそ、よく死ぬこと。自分が死ぬとき、本当に生まれてきてよかったと思えるような人生を送りたい。そして、そういう人生を生きているという実感を持てるかどうかが、当人を生かしたり殺したりするのではないだろうか。病気でも、障害を抱えても、生まれてきてよかったと思える生き方を選択する。それは自らの健康に執着することより遥かに大切なことに思えてならないのである。

 ここで改めてもう一度だけ語りたい。どんなに予防しようとも、人は病気になるときはなる。誰にでも運命はいきなりやってくるのだ。そして、どんな境遇にあろうとも、悲嘆することより、その運命と共に生きることこそ、新しい人生を開く鍵となり得るのだ。

 失明したぼくは人工透析導入の際、医師から長くて五年の命だろうと宣告された。しかし、それから十六年間、ぼくは元気に暮らしている。そればかりではない。ぼくには末期癌を宣告されて健康に過ごしている複数の知人がいる。ぼくたちに共通しているのは生き甲斐だろう。信仰、自尊心、向上心、愛情、仕事、趣味。生き甲斐は何でもいい。ポイントは、それらのどれもが心の栄養になっているという点である

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