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■ あの世でもずっと王様、寺村輝夫 その一

◆ アフリカの話を書いてから
 猫の目日記「噂の犬軍団」でアフリカの話を書いてから間もなくの5月21日、文中で話題になった寺村輝夫先生が逝去された。1928年生まれで、ボクより20年先輩だったから、享年77歳か78歳であられたと拝察する。
 ラジオからの知らせで事実を知ったとき、ボクは思わず落涙した。どうも最近、泣くことが多い。涙腺が弱くなったのは年齢のせいであるが、同時に自分が人を見送る順番に立たされてしまった、ということなのでもある。

◆ 失明したボクが童話を書く
 1986年、ボクは緊急入院で人工透析を導入した。状況はシリアスだった。判断が少しでも遅れていたら、間違いなくボクはこの世とおさらばしていたことだろう。
 沢山のお見舞いがあった。その中には寺村先生と一緒にケニア旅行をした東君平さんもいた。けれども、ボクはみんなの顔を見ることができない。既にボクは両眼を失明していたからである。
 退院してボクは絵を捨て、文筆を握った。そして童話を書き始めた。けれども順調にはいかない。
 そんなある日、大阪の出版社「ひかりのくに」から執筆の依頼があった。作家としてなんら実績のないエム ナマエに文筆を依頼してくれたのである。大喜びでボクは絵本のテキストを仕上げた。タイトルは「ロケットばあちゃん」。我ながらほれぼれとする作品であった。
 だけどボクは道に迷っていた。依頼には応えられても、自主的な作品が書けず、どこへ向かえばよいのか見当がつかなかったのだ。
 意味もなく机に向かっていた早朝、いきなり電話が鳴る。東君平さんからだった。
「エム、君が迷っていると思って」
 その言葉から展開された君平さんのアドバイスで、ボクの目から鱗が落ちた。
「エム、君の苦悩はどこかに忘れて、書いている君も嬉しいし、読まされる子どもも楽しめる、そんなお話を書けばいいんだよ」
 そう、見えてきた。ボクの中の子ども時代が青い空に白い雲を浮かべている。電話が終わった直後から、ボクは長編童話を書き出した。

◆ 見送られるはずだったボクが見送っている
 電話をもらってから一ヶ月、ボクは自分の空想から生まれてくるファンタスティックワールドで夢中になって遊んでいた。そんなとき、まさかの出来事がボクを直撃した。君平さんの死を知らされたのだ。
 その夜、ボクは呆然と通夜の席でうなだれていた。すると、誰かがボクの肩を叩く。
「おい、エム」
 寺村輝夫先生の声だ。ボクは声の発生源を見上げる。交わされる言葉はない。お互い、過去の思い出に別れを告げる、ただその感慨だけを共有していた。
 ひとつタイミングを失えば、ボクが見送られるはずだったのに、そのボクが見送っている。ああ、どうしたらいいのだろう。
 家に帰ってから、まっすぐ机に進んだ。そして何も考えず、白い紙に見えない文字を走らせたのである。

◆ 処女長編童話
 それから半月、クリスマスソングが流れるラジオを前にして、処女長編童話「宇宙からきたネコ博士」を書きあげた。複雑な思いの交錯する脱稿であった。
 作品はあかね書房から「UFOリンゴと宇宙ネコ」として出版され、ボクは児童文芸新人賞をいただいた。けれども寺村先生には叱られることになる。
「童話を書くのだったら、なんで俺に相談してこないんだ。あの作品、悪くはないけどさ、もっと良くなったぞ」
 これが寺村式愛情表現だ。少なくともボクはそう受け取っている。振り返れば、それまでどれだけ寺村先生の叱責を受けてきたことであろう。

◆ 寺村先生との出会い
 慶應義塾大学マンガクラブ創始者、ヒサクニヒコ。ボクが入部したそのときは、ヒサ先輩は既に卒業され、プロの漫画家となられていた。そのヒサクニヒコ先輩が絵本の世界に乱入してきたのである。
 おいおい、ヒサ先輩は漫画家ではなかったんですか。絵本の世界ではボクが先輩ですよ。なんてことはいえない。ボクらマンガクラブで学んだ人間にとって、ヒサクニヒコは絶対的な君臨者なのである。いや、こう書いてしまうと、なんだかヒサさんが威張った頑固親爺みたいに映ってしまうので、修正いたします。ヒサクニヒコはTBSラジオの子ども電話相談室やNHKラジオの「疑問の館」で知られるような正統派のインテリでありまして、愉快でユーモアにあふれた魅力的な人柄で、後輩からも大変愛されているのです。そう。慶應義塾のマンガ史にさんさんと輝く太陽みたいな存在なのであります。うわあ、周囲がみんな偉い人ばかりなので、自分のホームページでも気配りをしないといけないこのつらさ。とほほ。
ポプラ社刊「おにのあかべえ」
 そのヒサ先輩が絵本でヒットを出した。テキストは寺村輝夫。マンガクラブの君臨者が童話の王様とタッグを組んだのである。これは鬼に金棒、オニギリに金網。ヒットしないわけがない。
 寺村輝夫の王様絵本は児童出版の分野で鮮烈な輝きを発していた。そしてそのとき、ボクと王様との距離は無限大であった。

◆ 王様との遭遇
 心密かにボクは寺村輝夫に憧れていた。なんで密かだったかというと、ボクは慶應義塾大学図書館情報学科教授、渡辺茂男の門弟であったからだ。
 石井桃子、瀬田貞二、渡辺茂男。この偉大なるトリオが戦後の児童出版世界を啓蒙した。この伝説は今も立派に生きている。もちろん他にも子どもの本に貢献した偉人は少なくない。それについては別の機会に論じるとして、ボクは石井桃子の影響で子どもの本に首を突っ込んだ。
「ノンちゃん雲に乗る」
 不朽の名作である。ボクは中学2年生のとき、この本に出会った。それがボクを絵本の舞台に立たせる布石となったのである。
 1968年、自費出版したミニ絵本「雪の坊や」を携えて石井桃子先生の児童文庫を訪れた。けれども石井桃子先生にボクの絵は評価されなかった。いわゆるマンガを先生はお好きではなかったのだ。あれ、ボクは脱線しているぞ。いけない、いけない。話を元に戻しましょう。
 そうそう、渡辺茂男先生の話だった。いつか恩師渡辺茂男先生についてはみっちりと語りたい。けれど、今はそのライバル、いや、おそらくはライバルであったと思われる寺村輝夫の話題なのだ。

◆ 子どもの本の早慶戦
 寺村先生は早稲田の出身。ヒサクニヒコは慶應義塾の先輩。おお、一冊の絵本の中で早慶戦をやってるじゃないか。と書くと早稲田と慶應義塾は犬猿の仲みたいな印象を抱かれてしまうが、実はそうではない。本当は仲が良いのだ。お互い認め合っているのだ。
 ちなみに、一般的には早慶戦と称されるが、慶應義塾ではこれを慶早戦と呼んでいる。
 そして、渡辺茂男教授も慶應義塾の生え抜き。ここでも早慶戦が始まりそう。いや、ご本人たちに、そんなお考えが露ほどもおありになるはずがない。ボクがこだわっているだけなのだ。あはは。
あかね書房刊「みつやくんのマークX」
 忘れもしないエム ナマエの単行本デビュー作品。絵童話という形式で、すべての見開きに絵がついている、いわば絵本の顔をした読み物であった。作者は渡辺茂男。当時、ボクは慶應義塾の学生で、渡辺茂男先生の下で児童文献の授業を受けていた。
 恩師の作品で児童図書デビューする。なんとラッキーなことだろう。けれども、ボクのラッキーはまだまだ続く。これがエム ナマエの可愛くないところ。いや、可愛いところ。本人がいうのだから勘弁してほしい。

◆ 人形劇団ポポロ
 山根宏章団長率いる人形劇団ポポロ。失礼ながら、この比類なき人形名人、山根宏章氏をボクはサンちゃんと呼ばせていただいている。
 さあさあ、ボクの人間関係がますます錯綜してきたぞ。すいません。しばらくはエム ナマエの過去の人間関係の紐解きをお許しください。
 サンちゃんこと山根宏章氏とボクとの出会いは高校3年生の夏休み。美術部の合宿で滞在していた榛名湖のユースホステルで、ボクは山根宏章氏の華麗なる人形操作を目撃したのである。いや、正確に表現すると、それは人形ではなく、アンブレラと玉子の殻であったが。いずれにせよ、ボクはサンちゃんの虜になってしまった。そしてその秋、人形劇団プークの舞台を体験して、ますます人形劇という芸術に魅了されることになったのである。
 サンちゃんこと山根宏章氏はやがて結婚、独立して、人形劇団ポポロを立ち上げる。その第一回公演からボクは宣伝美術でお手伝いさせていただいたのだ。
 サンちゃんは比類なき人形の天才であると同時に、役者としても超一流である。いや、偉大な脚本家でもあり、また演出家でもあり、プロデューサーでもある。その人形劇の総合的クリエーターが寺村輝夫とヒサクニヒコの「おにのあかべえ」に注目したのである。
 その舞台でもお手伝いさせていただくチャンスに恵まれた。そして初演のとき、ボクは図らずも寺村輝夫と遭遇したのである。
 まぶしい。ボクは反射的にお辞儀をした。初めて対面する寺村輝夫という人物からは力強いオーラが発せられていたのだ。
 けれども寺村輝夫という大物は繊細な心遣いの人物であった。人を軽く見ないのである。親切でやさしいのである。何の話がどうなってそうなったのかはよく思い出せないのだが、先生はいきなりボクにアフリカ行きを勧めたのだ。そしてそれは実現した。

◆ 寺村先生のくれた夏休み
 アフリカの絵本をかく。寺村輝夫の一言でそれは実現した。ケニア在住の獣医、神戸俊平の作品「チンパンジーのキキ」のイラストレーションを担当することになったのだ。ケニア旅行の費用は原稿料のアドバンスで支払う。さすがは小学館。太っ腹である。
 さて、ここで神戸俊平氏についても語らなければならない。このユニークな人物については猫の目日記「噂の犬軍団」でも触れているが、重複を恐れずここでも書かせていただく。
偕成社刊「ざっくりぶうぶうがたがたごろろ」
 ボクの最初の絵本である。テキストは神戸淳吉。1974年に初版。1986年に新装版となったが、今でも毎年必ず増刷を重ねるロングセラーの名作絵本だ。と自画自賛するところがなんとも図々しいが、お許しあれ。
 奇遇にも、神戸俊平氏はその神戸淳吉先生のご子息であられたのだ。ケニアで最も古い日本人。現地で最も愛されている日本人。ボクはその人と絵本を仕上げることとなり、その取材との名目でケニア旅行に恵まれたのであった。

◆ ケニアは遠い
 ケニアは遠い。大英帝国の航空会社、BOACの直行便で27時間。いや、距離ばかりではない。現地に滞在するためには黄熱病やマラリア対策を講じる必要がある。渡航事前に様々な処置を受け、また勉強をしなければならなかった。1977年のケニアは、日本人にはまだそれほど馴染みのある土地ではなかったのだ。
 勉強会に集まったメンバーが面白い。寺村輝夫ご一家。そう、ファミリー全員集合なのだ。何度もアフリカを訪れていた寺村先生も、ご家族連れでアフリカ旅行をするのは初めてだったと聞いた。
 ご家族だけではない。先生の教え子たちも参加する。3人の保母さんもメンバーになっていた。そこに小学館の編集者、墨釜氏も加わる。スポンサー代表という所だろうか。

◆ 寺村輝夫の雷鳴
 そして絵本作家の和歌山静子。王様シリーズの画家としても知られる日本を代表する絵本作家である。加えて東君平、杉浦繁茂、織茂恭子。高名な絵本作家、デザイナー、イラストレーターが勢揃いとなった。エム ナマエなど吹けば飛ぶような平のイラストレーター。つまり、ヒラストレーター。端っこで小さくなっていればよいのに、いちいち知ったかぶりをするもんだから、とうとう寺村先生の雷が落ちた。
「エム君、貴方は物知りで大変結構なんだが、世の中には君よりももっと知識にあふれた 専門家がおられる。もう少し謹んで人様の話を聞くことをお勧めするね」
 要するに、もっと静かにしていなさい、と叱られたのだ。うわあ、恥ずかしい。
 だけど、叱られたのはボクだけじゃない。やはり生まれて初めてのケニア旅行にはしゃいでいた和歌山静子に寺村輝夫が落雷した。カラカラ、ドッカーン。そしてボクは驚いた。あの気高い和歌山静子が泣き出したのだ。落雷で落涙。いや、冗談でなく、泣く子も黙るではなく、若山静子も泣き出す寺村輝夫。さすが王様と呼ばれる人物。ボクは寺村輝夫という個人にますます興味を抱いた。
 続く    21/06/2006


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