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■ とうとう星の王子様に巡り会えました

◆ 本当をいうとちゃんと読めてはいなかった
 そもそもがよくない。星の王子様を最初に手にしたのは大学生のときだった。それも原書、フランス語。だからピンとくるわけがない。けれど、ただひとつだけ、間違いなくピンときたものがあった。それがあの可憐で魅力的な王子様の絵である。
 なんで原書なんかで読んだかというと、それはフランス語の授業の副読本だったのだ。でも、それも確実ではない。というのはきちんとした記憶がないのだ。もしかしたらマンガクラブに所属していた文学部の誰かのを見せてもらっただけなのかもしれない。
 もしもそれだけだとしたら、あの王子様の姿にはすさまじい威力がある。脳細胞のネガフィルムを取り出して、いつだってあの絵を現像できるくらい鮮明に覚えているのだから。ボクの知るかぎり、彼は世界でいちばん美しい男の子だった。

◆ 日本語でも分からない
 それから翻訳を入手した。すぐに読んだ。翻訳だから日本語である。けれどもやっぱりピンとこない。馴染めないし、理解できないのだ。
 だいたいウワバミが気にくわない。なんでウワバミなのだ。ゾウをまるのみにするくらいの大蛇だからウワバミなのか。ちょっと時代錯誤ではありませんかね。
 もともと翻訳は苦手だった。どんなに原作がよかろうと、翻訳家の腕、というか好みによって印象が左右されてしまう。星の王子様の翻訳がどうかという問題ではなく、そもそも翻訳とは、そんな宿命を背負わされているのだ。

◆ 舞台も見てみましたよ
 バイブルの次に読まれているとも噂されるこの本。本当かどうかは分からないけれど、世界中で翻訳され、愛されていることは間違いない。ボクの記憶が正確ならば、映画にもなっていたような気がする。
 失明してからは、ミュージカルの舞台を観たことがある。役者も音楽もよかった。カラフルでファンタスティックなイメージが自然に広がっていく。けれども最後まで星の王子様に出会えたような気にはなれなかった。
 そもそも彼はいったい誰なのだ。それがボクには分からない。宇宙いちばんの純粋な魂。世界で最もさびしい心。てのは答えのようで答えでない。本当に大切なものは目には見えない。というような解説は誰にでもできますしね。そんなオブラートをかぶせたような説明でなく、ボクが本当に知りたいのは、彼の真実の姿なのだ。

◆ 読夢の会
 「読夢の会」については以前にも書いたことがある。NHK『ラジオ文芸館』の有志がメンバーの朗読グループである。言葉のマエストロが生で展開するストーリーテリングの魅力は、一度体験したら、もう逃げられない。
 2006年8月5日夕方、明大前のキッド・アイラック・アートホールは既に満員であった。題材は「星の王子様」。読み手は青木裕子アナウンサー。世界一の名馬に世界一の騎手。そんな組み合わせの魅力的な企画である。
 席につくとNHK「視覚障害者の時間」の山田アナウンサーや日本点字図書館の小野さんから声をかけていただいた。女優の二木てるみさんもいらしていて、ひさしぶりの再会に手を取り合った。

◆ 朗読で見えた世界
 その夜のテキストはまったく新しいものだった。原作者の著作権有効期限が切れたため、自由な翻訳が可能になったのである。翻訳者はNHKのOBディレクター、大久保俊文さん。原文もそうであるらしいのだが、シンプルな言葉遣いが心地よい。
 ゾウをまるのみしたのがウワバミでもボアでもなく、へびなのがうれしかった。おかげでスムースに本の世界に入っていける。つまらないことかもしれないが、ボクにとってのひっかかりがなかったのがありがたい。
 朗読の合間に神秘的な音色が流れてくる。スピネット。ボクの知らない響きである。その実態は古楽器。チェンバロの親戚なのであった。奏者は小澤章代さん。その美しいフランスバロックの旋律は作品の神々しい雰囲気と共鳴して、キッド・アイラック・アートホールを清らかな空気で満たしていった。
 途中まで聴いて、ふと思い出した。この作品、ボクは全部を読んでいない。そう確信したのは新しい翻訳のせいなんかではない。これまで、舞台などを通じて、全編を読破したような錯覚に陥っていただけなのだ。
 ボクはすごく興奮した。王子様が訪れる星でのエピソードや会話があまりに面白いのだ。思わず笑ってしまう。そうすると、誰かも笑う。笑いの波紋が広がっていく。やがて結末、悲しい別れ。気がつくと物語りは終わっていた。

◆ 夜に抱かれて
 夜に抱かれてボクは浮かんでいる。酒の酔いに助けられて、心が真夜中に遊んでいる。考えているのではない。ただ恍惚としているだけなのだ。
 青木アナウンサーによって、やっと星の王子様に巡り会えた、そんな気がしていた。あの声、あの息、あのリズムで、とうとうボクは出会えたのだ。
 最初、ボクはこの作品、男と女の話かと思っていた。そのうち、愛の物語であることが見えてきた。それもボクのよく知っている…。
 なぜ舞台は砂漠なのだろう。どうして王子様は操縦士に羊の絵を頼んだのだろう。操縦士は井戸の水を王子様に飲ませてあげた。そして星の王子様は自ら毒蛇の犠牲となった。王子様が地球におりて、操縦士やボクらに伝えたかったことって…。
 そうだ。なんてボクは無知だったのだろう。考えなしだったのだろう。ボクらはずっと昔から星の王子様と出会っていたのだ。人類の誰もが星の王子様を知っていたのだ。
 その夜、ボクは真実に寄り添うことを許されて幸せだった。それにしても、このことを、いったいどれくらいの人が知っているのだろう。いや、もしかして、知らなかったのはボクだけかもしれない。翌日、電話でボクは青木アナウンサーにそのことを伝えた。
「私もそう思います。だって、操縦士は、あれほど王子様から離れないといっていたのに、三度も言葉にしていたのに、最後のときは王子様から離れていたのですもの」
 電話を切ってから、ボクはゆっくりと振り返った。作品のこと。作者のこと。フランスのこと。ヨーロッパのこと。そして、どこまでも広がる砂漠と星空のことを。   10/08/2006




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