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■ 小学校はいい匂いがする

◆ 地下鉄の匂いは懐かしい
 地下鉄のエリアに踏み込むと、懐かしい匂いがする。長い地下道を通ってくる風の匂い。機械の匂い。カビやホコリの匂い。どうにも正体不明の匂いだが、ボクには懐かしくてたまらない。小学生時代、ボクは地下鉄で通学していたのだ。
 西銀座駅、現在の銀座駅で丸の内線に乗り、赤坂見附や国会議事堂前で降りて、ボクは小学校や中学校へ通った。当時の定期券は銀座線と丸の内線の全線有効だったので、ボクは地下鉄でいける場所なら、どこへでも神出鬼没。渋谷、新宿、池袋。上野、浅草、後楽園。東京中の繁華街を遊び場としていた。といっても、決して不良なんかではない。ボクにとって繁華街は特別な場所ではなく、自分の居住空間であったのだ。

◆ ホームドアは安心への扉
 都営三田線、日比谷駅。最近の地下鉄はすごい。ホームドアなんてものがあって、利用者の安全が確保されている。以前からこういう設備があったら、どれだけの盲人の生命が救えただろう。悲惨なことだが、ホームからの転落で、毎年のように落命する盲人が絶えない。
 それにしても駅員がいない。乗り換えや出口を聞きたくても、尋ねる人が見当たらない。ボクの知っていた地下鉄には駅員の姿があった。けれども自動改札機なんかが普及して、切符を買うにも、電車に乗るにも、まったく人とのコミュニケーションを必要としなくなった。これじゃあ市民のコミュニケーションスキルが落ちるのも当たり前。
 とにかく効率最優先。便利な機械の導入もサービスというよりは、人件費削除が優先されての結果ではないかと疑いたくなる。
 自動車メーカーが環境問題をテーマにし、シートベルトやエアバッグ導入で安全最優先を提唱しているように、電鉄会社だって哲学がなくちゃいけない。トランスポーテーションはひとつ間違えば惨劇の現場。市民の生命と安全の鍵を握っていることを忘れてほしくはない。
 とまあ、街に出ると、あれやこれやと気になることばかり。やたらと文句をいい、無闇にからみたくなる。この、この。自分でもあきれる困った性格。こんな人間に付き合い、サポートする家内の苦労には頭が下がる。感謝、感謝、ひたすら感謝の毎日である。
 けれども、もちろん親切な駅員さんが雲散霧消してしまったわけでもない。この日もデリケートなるハートの駅員さんがいてくれたおかげで、乗り越しの手続きを円滑に遂行できた。

◆ 芝公園で降りました
「内幸町」
 ホームからのアナウンスが聞こえてくる。ボクは小学5年生から中学2年生まで、この内幸町に暮らしていた。住居は東京電力の社宅。帝国ホテルとジャパンタイムスに囲まれた門をくぐり、変電所の変圧器の唸りを感じながら階段をあがり、玄関の扉を開く。ボクの部屋からは日劇のネオンサインと朝日新聞社屋の上ではばたく伝書鳩たちが見えた。ちょっと歩けば、日比谷映画街、日比谷公園。休みともなれば、デパートのおもちゃ売り場をハシゴして、毎日が面白くて楽しくてたまらない時代だった。あの頃の少年が、全盲のイラストレーターとして、今ここに生きている。
 地下鉄都営三田線、芝公園駅に立つ。この電車はゴムタイヤの車輪なのだろうか。鉄の蛇が暗黒のトンネルに金属音もたてずに滑り込んでいく。
 階段が深い。運動不足のボクの息があがる。けれど、とにかく自分の足であがっている。昨年の夏、車椅子でしか移動できなかったことが嘘のようだ。ここまで生きてきて、常に壁に衝突し、浅瀬に座礁してきた。口惜しさに夜は枕を濡らし、声を殺して嗚咽した。それでもこうして生かされている。そう。信じていればいいのだ。大丈夫と信じていさえすれば、いつも奇跡は傍にいてくれる。馬鹿かもしれないが、そんな気がしてならないのだ。

◆ 知っている匂い
 目的地は港区立芝小学校。ボクは道徳授業地区公開講座に講師として招かれていた。今年の夏、某所で芝小学校の榮校長先生とお目にかかる機会を得た。先生は絵本「あしたのねこ」のエム ナマエを高く評価してくださり、熱いリクエストをくださったのだ。
 ガードマンが小学校に招き入れてくれる。校長先生がウェルカムで迎えてくれる。すると、ボクをまたまた懐かしい匂いが包んだ。廊下を過ぎ、エレベーターに乗り、総合学習室にたどり着くまで、ボクはその心躍る匂いの正体が見えなかった。けれど、入室した途端、ボクの心の目から鱗が落ちた。そうだ。この懐かしい匂い、すべての小学校を満たす胸躍る匂いこそ、子どもたちの発する匂いだったのだ。
 「こんにちわ。ボクは小学校の匂いが大好きです。そして今日、ボクは気がつきました。それは君たちの匂いだったのです。君たちからはいい匂いがしています。そう。君たちはおいしそうなのです」
 懐かしい土地を通過して、懐かしい匂いのする場所を訪れて、なんだか敏感になっている。ボクの見えなくなった目に、小学生時代の真っ直ぐな自分が見えてきた。

◆ 絵本「あしたのねこ」の読み聞かせ
 見事な朗読だった。素晴らしいピアノ演奏だった。読み手の金澤さんも、弾き手の菅谷さんも只者ではない。おそらく、その道の達人でおられると拝察した。
 榮校長先生からこんなエピソードを聞かせていただいた。絵本「あしたのねこ」の読み聞かせのリハーサルをしているとき、ある方が先生に相談にこられた。けれども、リハーサルに接し、物語が終わると、その方は黙って帰られたという。もしかしたら、物語の中に、なんらかの答えを発見されたのかもしれない。こういうとき、絵本作家きむらゆういちという友人の存在を誇りに思う。

◆ エム ナマエの「おえかき」パフォーマンス
 1年生から4年生の小さい人たちのリクエストに応えて、次々に動物の絵をかいていく。なんだか分からないが、楽しくて仕方がない。ホワイトボードにマジックペンで線を引くのだが、開いた両足とヘソを基準に、全身をコンパスと定規にすると、不思議にも自由自在に絵がかけるのだ。経験は嘘をつかない。ボクは何も考えず、身体の命じるままに絵をかく。そして、それだけでよかった。

◆ 校長先生との熱い握手
 ボクが小さい人たちに伝えたかったメッセージはただひとつ。人を好きになること。ボクはいつも考える。好きになれば、その心は必ず相手に伝わる。人を好きになること、それを伝えることは恥ずかしいことでもなんでもない。嫌われることを恐れず、ひたむきに憧れ、人を好きでいれば、いつか必ず道は開く。
 熱い握手を交わして榮校長先生と別れた。この先生はボクの何に感じてくださったのだろうか。
 小さな人たちの無垢な魂の前に立ちながら、ボクは夢中で遊んだ遠い昔を思い出していた。されど、幼き魂であれ、成熟したハートであれ、人は生きている限り苦悩する。みんな、これまでどれだけの苦渋と絶望を味わってきたことだろう。ボクも家内も榮校長先生も。そして子どもたちを見つめる父兄の皆様も。生きている誰もが人生の坂道を歩いているのだ。
 地下鉄と小学校。夢中で遊んだ少年時代。走り抜けた青春時代。この日、懐かしい匂いという鍵が、思いもかけぬ扉を開いてくれた。  07/11/2006



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