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■ 我等が世代の共通記憶『植木等体験』
◆ 団塊の世代は無責任ゼネレーションなんていうやつがいる
 我等が世代の共通体験、それが植木等現象。そのおかげでボクら50歳から還暦に向かおうとする団塊の世代を無責任世代と決め付けるやからがいる。けれども、とんでもない。それはエネルギッシュな我等が世代に対する嫉妬心、やっかみの反作用であるに違いない。

◆ そもそも団塊の世代というラベリングが失敬である
 団塊の世代と文字で書くと、ああなあるほど、と多少は納得いくのであるが、最初にこの言葉を耳で聞いたとき、ボクは「段階の世代」とばかり思っていた。つまり、この「ダンカイノセダイ」というネーミングを、戦前でも戦中でもなく、戦争は知らないが、多少は戦前戦中の人々の心境を理解できて、それら心情を新人類に伝えていくことの可能な段階にある世代、というようなボクなりの解釈をしていたのだ。でも、違っていた。

◆ 経済という小さなケツの穴から世間を覗くと
 なあんだ「団塊の世代」かあ。塊かあ。それは命名者の都合、要するに経済的側面からしか世間を見通せない人種の、とあるセコい代表が思いついただけのネーミングだったのだ。けれども、ボクらは決して固まりなんかじゃない。数が多いから競走も激しく、敵もいっぱいいるから闘争心も磨かれて、そして戦後の厳しい世相の風に少しはさらされたからひ弱でもなく、エネルギッシュでもある個人個人の集合なのだ。団塊の世代を同じ考えをする群集と誤解したら、とんでもないミスを冒すことになるのである。

◆ けれど我等には強力な武器もある
 我々は同じ考えの塊ではないと宣言した。個性豊かな個人の集合であると言及もした。けれども我等には無敵のウェポンがある。それが共通体験だ。共通記憶と翻訳してもいい。この共通の思い入れがあるから我等をターゲットにすると、あらゆる商品や商法が有効となる。であるからこそ、金の動きばかりを目で追っている頭脳労働者代表が『団塊』と定義したのであろうと推察する。
 あの日本最初の少年漫画週刊誌「少年サンデー」も「少年マガジン」も、高校生向きの「平凡パンチ」も、大学生向けの漫画専門誌「ガロ」も「コム」も、グロウンナップした団塊の世代に発せられた「プレイボーイ」も「ポパイ」も、すべて我等世代の成長と共に育ってきたマガジンカルチャーなのである。ファッションだって同じだ。アパレル企業「VAN」や「JUN」の成功も、ファッションにおけるピーコック革命やミリタリールックも、その流行を支えてきたのは我等世代である。いや、日本という地域限定で語れば、ビートルズもヒッピーも我等世代の旗印と宣言してはばからない。

◆ 立山誠浩氏のこと
 文化放送「やるまん」について語ったとき、その直前に放送されていた「本気でどんどん」のレギュラーコメンテイター・立山誠浩氏について触れたことがある。彼はボクの仲良しのひとりなのだ。
 エム ナマエが駆け出しイラストレータ時代、彼も小学館の学年誌のチャンピオン「小学1年生」の編集メンバーになったばかりだった。彼はボクを担当してくださり、よく一緒に遊んだ。スキーにいったり、エアライフルに興じたり、同じ世代だったせいか、気の合う友人でもあった。
 やがてボクは失明という理由から子どもの本の第一線から身を引くことになる。そんなボクの耳に飛び込んできたのが立山誠浩氏の大活躍であった。学年誌の編集長になった彼は、その才能を開花させ、縦横無尽で暴れ回っていたのである。
 やがてボクも第一線に復帰し、立山誠浩氏に再会し、一緒に仕事のできる幸運に恵まれた。その代表作が絵本「とんでけホルモ」であった。けれど、立山氏はその仕事を最後に編集の世界から退くことになる。現在、彼は母親の介護のため、遠い故郷との往復生活に身を投じているのだ。

◆ エンターテイナー立山誠浩
 彼と再会して仕事を始めた頃、ボクは改めてエンターテイナーとしての彼の敏腕に驚かされた。ときには凄腕のゴーストライター、ときには面白翻訳家、ときには朗読エンターテイナー、ときにはハードボイルド作家、ときには洞察力あふれた文化文芸評論家としてボクを驚天動地の心境に導いてくれた。もちろん、敏腕編集者としてエム ナマエをサポートしてくれたことは書くまでもない。
 ボクのコンピュータには立山誠浩文庫とも呼ぶべきアーカイブがある。ボクのMDファイルにも立山誠浩録音文庫がある。みんな面白くて愉快であると同時に、示唆と洞察に富んでいる。そして、その文庫の厚みは増加する一方なのだ。

◆ 植木等氏の逝去という悲報が流れて
 さて、団塊の世代、共通体験というテーマに戻る。我等が世代にとってのヒーローは数知れず存在する。鉄腕アトム、鉄人28号、スーパーマン、エイトマン、月光仮面にまぼろし探偵。けれども生きた人間の代表、最大のスーパースターはなんといってもクレージーキャッツの、あの植木等氏であろう。
 その彼が80歳で浮世から浮上してしばらく後、立山誠浩氏から以下のような記事がメイルにて届いた。読んでいるうちに、ボクの目頭で涙が次第に盛り上がっていく。そうだ、そうなのだ。植木等体験こそ、我等世代の共通記憶だったのだ。それを浮き彫りにしてくれた立山誠浩氏に感謝しつつ、転載許可をいただいて、ここに掲載させていただいた。
01/04/2007/on April fool エム ナマエ

■ 『そのうち なんとか』      07-03-30 立山誠浩
【讀賣新聞2007年(平成19年)3月28日水曜日 朝刊第一面】 植木等さん死去 80歳
「無責任」「スーダラ節」 映画「ニッポン無責任時代」や「スーダラ節」の歌などで、日本中に笑いを振りまいたクレージーキャッツのメンバーで、俳優の植木等(うえき・ひとし)さんが、27日午前10時41分、東京都内の病院で呼吸不全のため亡くなった。80歳だった。告別式は故人の意向により、近親者のみで行う。

◆ 日曜日の夕暮れが嫌いだった。
 明日になると、また学校に行かなければならない。いつものことだが、宿題はなにひとつやっていない。どんな宿題を出されたのかも、ちゃんと覚えていない。ノートみたらかいてるかもしれんけど、いまからやってできんかったら、どうしょう。そう思うと、ますますやりたくない。ランドセルを開く気にもならない。
 うんざりした気分のまま茶の間に行って、テレビを点ける。回転式のチャンネルを9に合わせる。しばらくすると、牛の鳴き声がテレビから飛び出して来た。「牛乳石鹸提供 シャボン玉ホリデー 忠臣蔵だよっ、ピーナッツ!」テーマ音楽に続いて、テンポの良い“アメリカの歌”が流れて来る。くるくる回ると必ずパンツの見えるスカートを穿いた綺麗なお姉さんたちが、そうなったらいいなと思ったとおりに、くるくる回って踊ってくれる。
 そして…ブラウン管の中に、植木さんが現れた。冬だというのに、忠臣蔵のお話だというのに、ステテコを穿いてペッタンコの変な帽子をかぶって、ヘラヘラ笑いながら赤穂浪士たちの密談に割って入る。話の腰を折られた討ち入り姿の谷啓さんが眉を釣りあげる。ハナ肇さんが前歯を剥き出す。冷たい雰囲気を察した植木さんの顔に、一瞬緊張と戸惑いが走る。だが次の瞬間、植木さんはいつものように、カメラに向かってカッカッカと笑い出す。「うんっ? お呼びでない? お呼びでは、ないっ! こりゃまったっ失礼、いたしました!っと」 テレビの前に笑いが湧きおこる。
 気が付くと、二人いるお姉ちゃんと小さい方のお兄ちゃんと、台所にいたはずのお母ちゃんまで、いつの間にかテレビの前にやって来ている。おかしそうに笑い声を上げて、顔を見合わせている。毎週毎週見つづけた、もう飽きるほど聞いた科白なのに、皆同じ顔をして楽しそうに笑っている。

◆ あの頃、というのは
 1960年代初頭のことなのだが、植木等さんの唄う歌は一年中どこでも流れていた。テレビから流れる。映画館の前の路上に流れる。レコード屋の店先から商店街に流れ出る。一杯飲んで陽気になった大人が体をゆらゆらさせて歌い、学校から解放された子供たちが夕焼けを浴びながら帰り道で歌った。 あれからずいぶん経ったが、どのくらい思い出せるか、試しに資料を見ずに歌ってみよう。

♪サラリーマンは〜/気楽な稼業と/きたもんだっ!二日酔いでも寝ぼけていても/タイムレコーダがちゃんと押せばどうにか格好がつくもんだ/ちょくらちょっとパーにはなりゃしない(アッそれっ!)ドンと行こうよ ドンとねドンガラガッタ!ドンとドンと行きましょ〜

♪ゴマを〜すりま〜しょ/陽気にゴマをねっ!/(アッすれ!すれ!)口から出まかせ出放題/金もかからず元手も要らず

♪あなただけが/生きがいなの/お願い〜お願い〜/棄てないでぇ〜 てなこと云われてその気になって/女房にしたのが大間違い炊事洗濯まるでダメ/食べることだけ三人前ひとこと文句を云ったなら/プイと出たきりっ/ハイそれまでよ〜ふざけやがって!ふざけやがって!ふざけやがって!この野郎!泣けてく〜る〜

♪金の無い奴ぁ俺ンとこへ来いっ!/俺も無いけど心配するな〜見〜ろよ 青い空白い雲/そのうちなんとか/な〜るだろう〜

♪ちょいと一杯のつもりで呑んで/いつの間にやら梯子酒気が付きゃホームのベンチでゴロ寝/これじゃ体に良い訳ァないよ分かっちゃいるけどやめられねぇ(アッ それっ!)スイスイ スーダラダッタ スラスラスイスイスイスーダ スーダラダッタ スラスラスイスイスイスイスイ スーダラダッタ スラスラスイスイスイスイスイ スーダラダッタ(スイスイ スーダラダッタ)スイスイ スーダラダッタ スーダラダッタ スイスイ と来らぁ!

◆  大した苦労もなく、これだけ歌えた。
 歌詞はもちろん、植木等さんの微妙な歌い方やバックコーラスの合いの手まで、表記できた。間違って覚えている部分もあるだろうが、歌が滞ることはなかった。ひとりの歌手の持ち歌をこれほど覚えているのは、植木等さんの場合だけだろう。 しかし、10歳からせいぜい15歳までに聴いた唄を、今なぜこれほど鮮明に覚えているのか。繰り返して云うが、歌詞を覚えているだけではない、植木等さんの歌声も覚えているのだ。レコードもCDも、一度も手に入れたことはないというのに。

◆  さて。 月曜日の休み時間には、
 いつも友達と「シャボン玉ホリデー」の話をした。どこのクラスにも必ず、植木さんの真似の上手い剽軽者が一人は居て、彼らがもう一度笑いを再現してくれた。僕ら「白組」の植木等さんは、天然パーマのK村くんだった。「コンバット」や「隠密剣士」もみんな大好きだったが、「シャボン玉ホリデー」なら女の子たちも話の輪に加わってくれるので、教室全体で笑ったりはしゃいだり、羽目を外せるのだ。 女の子たちの嬌声を受けると、K村くんの物真似テンションは、いつもどんどん高まっていった。最初は自分の席で歌っていたが、とうとう調子に乗って黒板の前に跳び出し、ひときわ高く声を張り上げた。
♪宿題しとらん奴ぁ俺ンとこへ来いっ!/俺もしとらんけど心配するな〜見〜ろよ 青い空、白い雲/そのうちなんとか/な〜るだろう〜
♪勉強のできん奴ぁ俺ンとこへ来いっ!/俺もできんけど心配するな……  そうだ。K村くんの替え歌が、あの時すでに答を教えてくれていた。植木等さんの唄は、単なるコミカルソングではなかった。 あれから40年が経った。受験があり学生運動があり就職試験があり、残業して呑めない酒が呑めるようになって仕事でミスを犯して救急車に乗せられて財布を落として右翼に脅されて上司に叱られて路上で喧嘩して精神科に通って、楽しいこともさして楽しくないことも、いろいろとあったが。植木さんの歌うとおり、「そのうち なんとか」なっていた。


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