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■ 無言館成人式レポート
◆ 5月4日は早起き
 大型連休真っ最中の緑の日。だもんで、3時に起きるのである。でも、慌てて支度をしたものだから、前の日のパンツをそのままに、Gパンをはいてしまった。ええい、いいや、このままで。そう思いながらネクタイをしめる。若人の未来を祝う式典だから、ボクなりの正装をするのである。そうなると、ああ、やっぱパンツが気になるなあ。
 交通渋滞を予測していたのだが、以外にスムース。けれども、ゴールデンウィークにドライブなんて生まれて初めての経験。とにかく約束の時刻までに長野県の無言館に到着しなくてはならないのだ。館主の窪島先生との男の約束を守ることは、エム ナマエに与えられた最優先課題なのであった。

◆ 志の舗落語のブラックコーヒー
 それにしても、心配なのは運転する家内、コボちゃんの寝不足。我等が愛車は空中分解、ではなくて、地上分解寸前のボンコツ車。赤錆の粉を撒布しながらの高速走行に運転手が睡眠不足では、命がいくつあっても足りはしない。そこで志の舗落語のCDをかけ、ふたりで大笑いをして目を覚ますのである。志の舗落語には充分なカフェインが含まれていて、それは確実にブラックコーヒー3杯分に匹敵する。
 後部座席を倒したスペースには愛犬アルル。盲導犬になれなかったブラックラブではあるが、素質はいいので、まるで盲導犬のように賢そうにはしていられる。けれど、どうしたって本物の盲導犬ではないので、アルルはいつも車内待機。ボクらの仕事の終わるのを、ひたすら待って、じっとガマンの子であるのだ。

◆ 約束の時間に滑り込みセーフ
 間に合った。けれども太陽がさんさんと照りつける山の中腹の駐車場は車でいっぱい。すると、無言館の若いスタッフがボクらの車を山頂の館に誘導してくれたのである。
 車を降りると、いきなりトイレにいきたくなる。これから大切な儀式だから、とにかく緊急事態だけは避けなければならない。そこで館のトイレにいくが、内部は満員。トイレには行列。これはガマンせねばならないぞ。ボクは必死の覚悟をして、自らの局所に決死の覚悟を要する特殊任務を与えたのである。

◆ 式典が始まった
 鳥の声、日の光。晴れ渡った山の空の下、大勢の気配を前にして、ボクは椅子に座った。隣にはメインゲストの筑紫哲也氏。日本を代表するジャーナリストである。以前、お目にかかったことはあるのだが、どうやらボクは覚えていただけてないらしい。けれども筑紫さんは紳士。ボクなどの小物にも繊細な気遣いを示してくださる。筑紫さんのむこうには館主の窪島誠一郎先生。ボクの尊敬する偉大なるオッサンである。
 筑紫哲也さんは徹夜であるらしい。筑紫哲也だから徹夜というわけではない。39名ひとりひとりの資料を読み、思いをめぐらせながら書いた手紙を胸に、この会に臨んだからである。これから、それらの手紙を各人に手渡していくのだ。出身地と名前がアナウンスされると、返事があり、足音が近づいてくる。そのひとりひとりに手書きの手紙を手渡していく。ときおり交わされる言葉の切れ端が、風邪に流され、ボクの耳に届いてくる。何が語られているのだろう。もしもあれが自分だったら、どんなにか嬉しいことだろう。ボクはこの成人式に出席したすべての新成人を羨ましく思った。

◆ エム ナマエに与えられたミッション
 筑紫さんのスピーチが終わった。今度はボクの出番だ。館主から下ったミッションは3分間のショートスピーチだけ、とボクは簡単に考えていた。ところが、そうではなかったのだ。やはり無言館の館主はただのオッサンではない。ボクのような若輩者でも差別はしないのである。日向の石の裏側で蠢いているダンゴムシのようなイラストレータにも、筑紫さんと同じくらいに重大なる任務を与えてくださったのである。
 名前を呼ばれて若者が、ひとりひとり目の前に歩み寄る。そしてボクは拙著「やっぱり今がいちばんいい」を手渡すのだ。耳元で無言館の若いスタッフが小声でもう一度、新成人の正確なお名前を伝えてくださる。その名前を呼びかけながら、ボクは小さな絵本を正しい向きで差し出すのだ。若者の手により、本が手元から離れていく。そして握手。いや、無闇に握手は失礼だから、
「よければ、握手を」
と提案する。そして差し出したボクの右手に様々な手が重なる。大きな手、小さな手、柔らかい手、力強い手、乾いた手、しっとりとした手。みんなと握手をしているうちに、ボクは気がついた。ここにいる若者と同じく、20年前失明したボクも、この年、盲人として成人式を迎えたのである。20年。さて、ボクは彼等に負けないような立派な成人になれたであろうか。

◆ 黒坂黒太郎氏のコカリナ
 被爆樹というものがある。昭和20年8月6日、広島の朝日の下で、もうひとつの太陽に照らされた木のことである。その真っ黒焦げになった樹木から小さな楽器が生まれた。コカリナ。土の楽器がオカリナ。木の楽器がコカリナ。その被爆コカリナを演奏するのが黒坂黒太郎さんなのだ。黒坂さんのことは『ラジオ深夜便』で存じ上げていたが、その本物の音色を聴くのは初めてであった。コカリナの音色と融合して、女性シンガー、周美(かねみ)さんの美しい歌声が広がっていく。テーマは反戦。そう、ここは今も繰り返される悲惨な戦いへの無言の叫びを発し続ける館の庭なのである。
◆ 無言館館主の朗読『無言の詩』
 黒坂さんの演奏の合間に、館主が「無言の詩」を朗読する。誰のものであっても、自作の朗読は心に響く。ましてや無言館の成人式である。ボクの心に、窪島さんのビロードのような声が染み渡っていった。

◆ お庭で昼食会
 手作りのランチだ。けれども、ボクは絵本へのサインで食べることができない。ほとんど全員、39人の人たちと語らいながら、自作にサインすることは喜び以外の何物でもない。そうやって夢中でサインするうちに時間は過ぎていった。
 館主がちょこちょこ現れてはボクをからかっていく。
「いよ、人気者」
とか、
「いつまでもしゃべってないで」
とか、カーブやシュート、スクリューやフォークボールの親愛変化球を投げてくる。その度に、ボクも気のきいた返答をしたいと思うのだが、うまい言葉が浮かばない。ここ無言館の庭は、文字通り窪島さんの庭なのだ。
 さて、記念撮影の時間となる。ボクは筑紫さんの隣に座らせていただく。筑紫さんが苦しそうに咳をする。徹夜をされて、お疲れなんだな。そう思う。社会から望まれる限り、人は与えられた使命を果たすことが最大の幸いなのだ。そして、この小さな自分にも、そんな役目を与えられたことに満足を覚えるのであった。

◆ 天麩羅はうまかったけれど
 記念撮影が終わり、家内と食事をいただく。目の前にはボランティアの皆様の手作り天麩羅。思わずかぶりつく。空腹なのだ。どうやら山菜らしい。ばくばく食べているうちに、やけに甘い天麩羅のあることに気がついた。まさか、お饅頭の天麩羅ではなかろうね。コボちゃんに尋ねる。すると、干し柿が揚げてあるという。やばい。透析患者のボクにとって、干し柿を食べることは、ほぼ自殺行為に等しい。いや、少し大袈裟ではあるが、バナナやスイカや柿のように、身体を冷やす食べ物は、腎臓患者には禁物なのだ。甘くておいしい天麩羅だったが、ボクは申し訳ない気持ちいっぱいで遠慮した。
◆ 無言館の見学
 盲目でも見学。そう、目で見るのではない。すべては心と意識で見るのである。見えると見るは同じようで同じではないし、見えるから見ない、ということもある。どんな風に見えるかよりも、どのように見るか。それが大切なのだ。なあんて、勝手なことを書いてます。あはは。
 分厚くて頑丈な木製の扉を開くと、まるでドラマの効果音みたいな重厚な音がする。ひやり。外気とは別の空気に触れて、心のどこかが緊張する。そこが無言館の内懐なのだ。
 すすり泣きが聞こえたような気がした。作品と遺品の間を慎重に移動する。内部は人で満ちているのに、静寂に包まれていた。
 コボちゃんが囁く声で説明をしてくれる。その言葉の切れ端で、ボクはありとあらゆる戦争の記憶を蘇らせた。そう、昭和23年生まれの自分にとって太平洋戦争は人生最大のテーマであるのだ。
 美術館内部は十字架の形をしているように思えた。もしかしたらボクの錯覚かもしれないが、やっぱり十字架だとしたら窪島館主の祈りが、そのまま建物の形になったのだろう。
 しばらくして立っていることができなくなる。それは未明から活動している疲れのせいばかりではなかった。
 出口にドネーションのための募金箱が置いてあった。そこで気づいたのだが、この美術館には入場券売り場が存在していないのだ。

◆ 陽光の下で
 木陰のベンチに座る。そこで愛犬アルルがボクらを待っていた。ちょっと見ると、盲導犬と思えなくもないお座り姿勢で待機していたのだ。
 途中、峠の釜飯弁当を食べながら、休み休みドライブをして、深夜やっと帰宅をする。疲れた。けれども、快い疲れである。そして、ボクはおもむろにトイレに入り、自分の局部を特殊任務から解放してやったのである。

◆ 胸にぶらさがるもの
 今、ボクの胸にぶらさがっているのは筑紫哲也さんの癌のこと。成人式のすぐ後、氏は勇気あるカミングアウトをされたのであるが、記念撮影のときの苦しそうな咳が気になる。全快を心よりお祈りする。それからもうひとつ、胸にさがっているのは手触りのよい木肌のコカリナ。もうドレミファくらいは吹けるようになった。つっかえながらも「ふるさと」くらいは演奏できるのである。これは黒坂黒太郎さんから送られてきた、小さくて美しい木の楽器だ。もちろん被爆樹ではなく、ケヤキの木片でできている。この可憐な音色を耳にする度、ボクは無言館の成人式を思い出すのであろう。

◆ 改めて、無言館での成人式
 ここに、もう一度だけ、以前と同じことを書かせていただく。
 数年前、NHKラジオで聞いた無言館での成人式。 それはボクの心を動かした。志を半ばにして命の花びらを散らしていった画学生たち。その遺作を集める無言館での成人式は新成人たちにいかなる思いをもたらすのであろうか。
与えられた生命を寿命の最後まで燃やすことのできる権利。氏名を選択する自由。この三つの命を生きられる幸せを二十歳の人たちはいかに受け止めるのだろう。成人式の会場として無言館ほどふさわしい場所は他にない。
2007/5/24
 


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