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■ ぶらり コンサートにいってきました

◆ 情報をゲット
 ライオンズクラブが視覚障害者によるコンサートを企画した。そのステージに山本コウタローが立つという。というような情報を入手する。こりゃあ、いかざあなるめえ。なにしろ、5000円もするチケットなのに、視覚障害者は無料ご招待というのだから、断ることはない。ボクは事務所に電話して、
「ホントにタダで入れてくれるのですか?」
いきなり尋ねたら、上品な女性担当者が出て、
「そうでございます」
丁寧に肯定してくださった。

◆ 山本コウタローのこと
 最近、コウタローにはよく会う。以前にも書いたことがあるかもしれないが、彼とは東京都千代田区立麹町中学の1年生、2年生のクラスメイトだった。3年生のときも教室が隣同士だったから、毎日のように顔を合わせていた。親友というほどではなかったが、お互いを認め合う付き合いだったと記憶している。
 2年生のとき、卒業する3年生を送る会で、クラス全員で縦笛演奏をすることになった。その曲目の演奏指導をコウタローとふたりでやったことがある。彼のヒットナンバー「岬巡り」のイントロは縦笛であるが、ボクにはそのことが嬉しかった。
◆ 渋谷のパチンコ店『柳小路』
 1970年、イラストレータとしてデビューした当時、ボクは渋谷の住人だった。駅前のパチンコ屋『柳小路』で鉄の玉を弾いていたら、店内におかしな曲が流れた。どうも競馬のことを歌っているらしい。美濃部都知事の物真似や、レースの実況中継モドキが挿入され、騒々しくておかしい。なんとなく気にしていたら、「走れコウタロー」のフレーズが耳に残った。そして、まさかそのコウタローが、あの厚太郎であるとは夢にも思わなかったのである。考えてみれば、知名度の差はあるにせよ、ボクらのデビューは万博の年であったのだ。

◆ ジョン・レノンミュージアムで
 2001年、ジョン・レノンの公式追悼コンサートでコウタローと再会した。ボクも出演していたのだ。
「ナマエは歌がうまかったよな」
 コウタローが昔を思い出してくれた。時代を作った男から、そういわれることも嬉しいが、同窓会やクラス会とは違って、表現の現場で旧友と再会するのは感動的である。

◆ 一緒にラジオ出演
 昨年は一緒にラジオ出演もした。麹町中学1年E組のクラスメイト3人。参議院議員の沢ゆうじ、歌手の山本コウタロー、そしてイラストレータのエム ナマエである。
 沢ゆうじ、という男は当時から優れた弁舌かで正義感。いつかは政治家になるだろうと思っていた。ところが、テレビ報道の世界で活躍して、新しい番組スタイルなどを作り出して大変な活躍。フジテレビのニューヨーク支局長なども勤め、現地ではボクもずいぶん世話になった。だからということではないが、彼が立候補すると意思表示をしたときは、ボクも躊躇なく応援演説をさせてもらった。彼はいい政治家になれるかもしれない。そう考えたのだ。コウタローも応援で歌った。その昔、彼が生徒会長に立候補したとき、応援演説を担当したのが沢ゆうじであったのだ。いや、ここで沢君に頑張ってもらって、なんとか公明党に内部改革を加えてもらいたい。

◆ 緑の香る日比谷公園
 2008年4月15日、夕暮れの日比谷公園。懐かしい。ここは小学生高学年時代のボクの庭。ジャパンタイムスと帝国ホテルのビルの谷間、コンクリート巣箱に暮らしていた身の上には、まことありがたい緑地帯であったのだ。
 緑のエーテルにそびえる日比谷公会堂。古い建物である。黒澤明監督『素晴らしき日曜日』の舞台ともなった歴史的音楽公会堂。旧社会党の浅沼稲次郎氏が暴漢に視察された場所でもある。ボクがここを訪れるのは何度目だろう。そして何年ぶりだろう。そう、ここは懐かしく、またよく知っている空間なのである。

◆ ライオンズクラブ
 正面階段をあがろうとしたら、ライオンズクラブのスタッフがエレベーターに誘導してくれた。数メートルおきに誘導員が立っている。お疲れ様。
 エレベーターを出るとホールへの入り口。ここで署名と人数確認。災害対策であろう。なにしろ大勢の視覚障害者が集まるのだから、火事でもあったら大変だ。ライオンズクラブならではの経験による配慮なのだろう。

◆ 楽屋を訪ねる
 コウタローの旧友であることを告げ、楽屋まで案内してもらう。『ほぼウィークエンド』のメンバーがリハーサルをしていた。美しいコーラスだ。コウタローも歌っているのかと思っていたら、
「コウタローはソファーで倒れていますよ」
とメンバーに教えてもらう。休憩している所を悪いことをした。退散しようとしたら、コウタローが気づいて起きてきてくれた。短く言葉を交わす。先週も会ったばかりなのだ。

◆ 挨拶が長い
 会場に着席すると、ライオンズクラブの幹部が挨拶をしている。気持ちはありがたいが、いわなくていいことをいってるみたい。言葉は選んでいるが、想像力には乏しい。目の見えない人間を勇気付けてくれようとはしているが、視覚障害者に優れた人物の多いことを、あまり体験はしてないらしい。とはいえ、ライオンズクラブによる視覚障害者への貢献は小さくはない。中部盲導犬協会でも、ライオンズクラブにはずいぶんお世話になった。何より驚いたのは、視覚障害者が日常で使用している白杖が、米国のライオンズクラブの発案によるものだ、という事実である。

◆ 視覚障害者によるコンサート本番
 いよいよコンサートが始まった。一番槍はバイオリン片手の吟遊詩人、増田太郎氏。3月29日にオペラシティーで川畠成道氏のバイオリンを聴いたばかりだったが、増田さんの基礎もクラシックであると直感した。背の高い増田さんと並ぶと、誰でも小さく見えてしまうのだろうが、一緒に登場したギタリストが本当に小さい人らしく、コボちゃんが面白がっている。そのギターと掛け合いで、バイオリンを演奏しながら美声を張り上げる。ユニークな歌唱法である。欧米にはよくあるのかもしれないが、実際にナマで聴いたのは初めてだった。世の中にはスゴイ人がいる。もっと歌って欲しいと思っていたら、次の歌い手が現れた。
 板橋かずゆき氏。このコンサートの情報源である。正確にいうと、板橋さんからの情報を青森在住の船橋素幸さんが知らせてくれたのだ。ボクは彼のCDを持っている。けれども実際の演奏を耳にするのは初めてであった。つまり、ボクにとっては最初の板橋ライブということになる。
 どんな視覚障害者も失明のドラマを生きてきた。エム ナマエには『失明地平線』という書物がある。そして板橋さんには歌があった。
 手術を重ねても目は見えるようにはならない。医者に告げられて、母親が彼を病院の屋上へ連れていった。
「一緒に飛び降りようか」
 母親がいうと、板橋少年は宣言した。
「いや、ぼくは目が見えなくても頑張れる」
 当時の気持ちを彼は歌う。歌声は缶詰にされたものよりも力強く、ボクの心を波立たせた。カッコイイ。そうも思う。ステージが終わったとき、彼と力強く握手をする。ここにこれてよかった。ボクは彼に感謝した。
 堀内桂氏は高知の人。豪快で愉快。サウスポーで通常のギターを弾くからすごい。ポールマッカートニーと違うのは彼の指使いである。コボちゃんによれば、まるでキーボードを操作するように弦を押さえていくらしい。それにしては、あの力強いギターサウンドが不思議。その激しいリズムに堀内氏の泣き節ともいえる歌声が重なる。土佐のブルース。そうなのかもしれない。
 ボクらが知らないだけで、世間には才能があふれている。語りと歌、そして演奏。長谷川きよしもボヤボヤしてられないぞ。いや、ボクも同じだ。若い才能はいくらでも育ってくるのだ。
 堀内氏はエム ナマエを知っていた。そして、ボクは堀内氏の存在を知った。けれども、彼はボクの絵を見たことがなくて、ボクは彼の音楽を楽しむことができた。盲人にとって、エム ナマエの仕事って、どんな意味があるのだろう。いや、意味なんてないのだ。改めてボクは音楽の力に拍手を送った。
 木下航志(きしたこうし)さん。2001年のエム ナマエ鹿児島展覧会のオープニングで歌ってくれた少年である。ボクはアカペラで歌う彼の澄んだ声を忘れられないでいた。あのとき少年だった木下君も、7年の歳月は彼を青年に成長させていた。あれ以来ずっと注目してきたが、現在の彼は日本のスティービーワンダーと称され、その人気も全国区である。この夜はピアノの弾き語り。2歳から演奏しているというから驚き。やっぱり日本のスティービーなのである。そして彼がボクを覚えていてくれたのも嬉しかった。
 塩谷靖子(しおのやのぶこ)さん。ボクのメルトモである。いや、それは大変に失礼な言い方。この方こそ盲人のためのコンピュータソフト開発に半生を捧げてこられたエキスパート。そして、バードリスニングのオーソリティーとしても知られる偉人である。あるとき、彼女の鼻歌が注目されることとなり、40歳を過ぎてから声楽家の道に踏み入れた。それからはソプラノ歌手として活躍。独自の翻訳と作曲で歌う『千の風になって』は注目されている、ボクがもっとも尊敬する視覚障害者のおひとりである。

◆ コウタロー登場
 さて、スペシャルコンサートは山本コウタローと『ほぼウィークエンド』。ほぼ、というのはオリジナルメンバーとは多少異なるかららしい。けれども、そもそもボクがオリジナルメンバーを知らないでいる。
 クラスメイトの山本厚太郎が山本コウタローとして芸能界に三十数年間も君臨していることはよく知っている。70年代のTBSラジオ、パックインミュージックでは、彼の番組に投書もしたし、彼もボクからの葉書を読んでくれ、またイラストレータのエム ナマエにも触れてくれたこともある。『岬巡り』は大好きな曲だし、ラジオから流れれば、鼻歌でコーラスにも参加する。けれども、コウタローのステージは2001年のジョン・レノンミュージアムが初めてだった。ユニット『ほぼウィークエンド』のライブともなれば、昨年の曙橋『バックインタウン』でのステージが最初だった。カッコイイ。流行のおじさんバンドのプロ版であるが、同世代が舞台で活躍するのは嬉しい。秋には青山の草月会館でのホールコンサートに招待されたが、感動的な舞台だった。中でも新曲『ミュージシャン』は若き日から音楽の世界を目指し、今もその道を模索し続ける彼らの心情を歌った名曲である。
 ステージに次々に登場する盲目のミュージシャンたちを、コウタローは舞台袖から熱い気持ちで見守っていた。MCでは長谷川きよしとエム ナマエについて語ってもいた。クリエーションには健常者も障害者も関係がない。あると錯覚させるのは偏見と差別と先入観の仕業だ。コウタローはそのことをよく知っているのだろう。『岬巡り』の大合唱でコンサートは終わった。

◆ 帰り道
 帰り道、ケータイでコウタローと話をする。ライオンズクラブの手違いで、終演後の楽屋を訪れることができなかったのだ。
「花束を渡そうと思ってたんだけど」
「そりゃ、残念。家内は花が大好きなんだ」
 地下鉄経由で経堂へ。すずらん通り商店街の『秋田屋』で焼き鳥をやる。気分がよくて酒もうまい。ひさしぶりのコップ酒。ぐびぐびとやりながら、シロの串にかぶりつく。長く人間をやればやるほど、友人が宝物になっていく。そういう人生を幸せだと感謝する。ぶらり、コンサートにいって、正解の夜となる。 2008/05/02 エム ナマエ

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