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▲ 希望は宇宙に浮かんだけれど ▲

◆ 宇宙開発に経済効果を期待するバカ

 日本が作ったお部屋が宇宙に浮かんでいるらしい。希望というのだそうだ。おめでとう。国際宇宙マンションで、日本も家主になれたのだ。家賃はいくらで貸すのだろう。
 てな具合に、テレビでもラジオでも、宇宙開発を経済効果で考える向きがいる。バカじゃなかろか。地上400キロが宇宙であるわきゃないんだし、無重力といったって、ぼやぼやしていりゃ、すぐに軌道から落ちてくる。そんな程度の宇宙でなく、いつか人間は本物の宇宙にいくのだ。宇宙が開闢して以来、人類は大いなる意志により、本物の宇宙にはばたく氏名を与えられている。無限の過去から時間をかけて、地球という星を作り出し、何十億年かけてDNAを育て、人類という種を生み出した目的がそこにある。もしも地球という惑星が選ばれた天体であるならば、もしも人類という種族が氏名を与えられているならば、それは宇宙に向けて意識を搭載した生き物、知的生命体としての人類の種子を飛ばすことにある。
 花粉症で悩む向きには気の毒だが、杉林だって、世界に花粉を飛ばしている。だったら、人類だって、宇宙にDNAをばらまこう。
 人は無条件に空に憧れる。鳥のようにはばたこうとする。それは宇宙に種をまきたい原始願望があるからだ。だったら、そのDNAをもっともっと教育しなきゃ。もちっと、ましな夢を見られるように鍛えなきゃ。宇宙開発と金勘定を同じテーブルにのせるようなら、人類はまだまだ。大国のアメリカはあの宇宙国際マンションを、近い将来オジャンにするとか聞いている。ああ、勿体ない。そんなことより、インチキな戦争を仕掛けて、よその国を滅茶苦茶にしておいて、文化も命も破壊するよな、そんな派遣から手を引いて、その予算を宇宙に回した方がよっぽどいい。でなかったら、昨日90歳で亡くなった、静止衛星軌道を発案した偉大なるSF作家、アーサーCクラーク先生に申し訳ないではないか。


◆ 宇宙には望遠鏡も浮かんでる

 ハッブル宇宙望遠鏡という人類のメガネが衛星軌道で活躍している。その高性能な望遠鏡が、またまたどえらい発見をしたらしい。60光年の距離にある惑星系にメタンを見つけたというのだ。メタンは生命体の材料になれる物質。つまり、生命の材料は宇宙のどこにでもあるということ。
 希望が周回している地上400キロの衛星軌道なんつうもんは宇宙という大海の、ほんの波打ち際も波打ち際。ぽちゃぽちゃ赤ん坊が水遊びをするような場所。月面到着だって、庭先散歩みたいなもん。火星や木星だって、ほんの町内。宇宙的規模からいえば、ほんのご近所なのです。
 けれど、60光年といえば、光が60年もかかる距離。だから、ううんと遠いかというと、実はそうでもない。なんせ、いちばん近い恒星だって、地球から4光年もあるんだから。つまり、宇宙って、それほど無限に広いわけで、少なくとも130億光年以上もの彼方だって、まだ宇宙であるらしい。まあ、そこのあたりは、130億年も昔の場所でもある、というように、宇宙のことを語り始めたら、頭がこんがらがる。そのあたりの計算というか、概念というか、考え方は、金勘定なんかとはレベルが違うのである。
  ですから、何がいいたいかつうと、そんなご近所に生命体の材料が発見されたつうことは、宇宙には無限に命の材料があって、無限に生命発生のチャンスがあるつうこと。だったら、もしかして人類みたいな知的生命体だって存在する可能性があるつうこと。
 世界中の科学者がまばたきするのもおしんで宇宙とニラメッコをしてきたわけは、人類だけじゃあ淋しいから。他にも友達ほしいから。その友達を見つけるため、有史以来、人類は星空を見つめて、神話なんかも創造したのかもしれないし、自分たちが何者なのか、その理由を星空に求めたのかもしれないのだ。いや、そうに決まってる。
 意識を搭載した生命体である我々はメタフィジカルな存在である。望遠鏡でのぞくだけでなく、宇宙の果てを空想して、そこに何があるのか考える。いや、考えるだけでなく、イマジネーションの分身を、その空間まで飛ばすことだってできるのだ。ね、ね。貴方だって、スターウォーズやETにわくわくしたではないか。SF小説のヒーローに憧れたではないか。だから、貴方だって、貴方の分身を宇宙の彼方に飛ばしていたのだ。


◆ くだらないことに金を浪費するな

 貴重な税金で国際宇宙マンションが浮かんでる。けれども、人類に夢を見せるためならば、どれだけの税金を投資したって無駄ではない。夢は必ず現実となって人類に戻ってくるからだ。周囲を見回せば、どんなマテリアルも夢の産物。そもそも、宇宙にいくことだって夢であったわけだから、宇宙開発こそ夢の実現の最先端。いちばんベストの、ざ・ベステストのシンボルなわけです。
 ところが、この税金を人の金だと思って、勝手に浪費しているやからがいる。一般の税金だけでなく、暫定税とか、特別会計とか、特定財源とか、いろいろと都合のいいカテゴリーを作り出し、好き勝手にしてる連中がいる。ついこないだも、シャホチョーとかいう軍団が、投資で4兆円も損をしたとか。ええっ。それって、彼らのお金じゃないわけで、国民から集めたお金でしょ。変換義務のあるお金でしょ。
  もしも資金運営に失敗したら、責任とらなくていいのかなあ。やっぱり、そういう損や無駄遣いも、みんな国民の借金として数えられてしまうのかなあ。おかしいなあ。不思議だなあ。国家って、いつも国民を裏切っている。嘘だと思ったら、歴史を調べてみるといい。にちばん近い歴史が明治以来の近現代史。戦争を口実にして、その動乱を理由にして、市民がどれだけ騙されて、どれだけ損をさせられたか、詳らかにするといい。たとえば、自分の父親母親、祖母や祖父の世代が、みんな国に騙されて、命と金を無駄にしてきた。


◆ ねじれていいよ

 先週、ジャーナリストの下村健一氏とランチをしてきた。楽しい家族団欒の空気を浴びながら、ボクらはひそひそ話。ジャーナリストがジャーナリズムをウォッチングしなければならない現状を聞かされた。彼はそれを憂慮していた。そうだろう。国や警察の発表をそのまま知らせる報道は、報道の価値がない。国民は真実を知る権利があるのであって、発表側に都合のいい情報を知りたいと思ってはいない。メディアリテラシーという概念を下村健一は教えてくれた。新聞もテレビもラジオも、果たして真実を伝えているだろうか。記者クラブの中でだけ、情報のやりとりをしてはいないだろうか。
 ただ、昨年の7月29日、選挙によって国民がバカでないことは証明された。政府与党はその時点で事実上、倒されたといっても過言ではない。現政権は幽霊であり、幻であり、法律や制度が浮かび上がらせたイリュージョンである。「ねじれ国会」というネーミングで誤魔化されてはいけない。
  ねじれていていいのだ。ねじれたおかげで、いろいろな手品のネタがばらされ、イリュージョンのタネも仕掛けも明らかにされつつある。いいや、もっとあるはずだ。マジメに働き、血税を支払いながらも、苦悩している国民を見下ろしながら、人の金で自分の老後の暮らしへの楽な線路を引いている、この国を好きにしている連中がいるはずだ。いつか、選挙というチャンスを有効に利用して、この国の線路を入れ替えて、ポイントをあちこち切り替えてやりたいものだ。
  国を好き勝手にさせないで、政権与党の入れ替わる度に、役人の首をチェスの駒のようにすげ変えられる、アメリカみたいなシステムにしたいものである。そうすれば、国の腐敗も悪事も、すべて白日の下にさらされるから、役人も、もっとマジメにやらなきゃと思うようになるはずだ。


◆ 絶対権力には必ず無理と嘘がある

 二度、中国を旅したことがある。一度は1980年の北京。美しい空。2002年の上海。親切な人々。世界中、どこへいっても、人々は親切で優しい。けれども、どうして国家は個人を裏切るのだろう。
 チベットが蹂躙されている。その精神的指導者が犯罪者扱いされている。その宗教的拠点が破壊され、その聖職者たちが犠牲になっている。このままでいいのだろうか。
 公称13億人の民を食べさせ、その権利と富を守り、コントロールするのは楽ではないだろう。もしかしたら、民主主義では間に合わないのかもしれない。
  けれども、一党独裁の政府よ、戦時中の日本軍を責めるのならば、1951年以来、中国がチベットに対して行っている派遣行為を正当化してよいものか。聞けば、チベットは地下資源の宝庫だという。ヒマラヤを背後にする地理的条件は軍事的に有効だともいう。そこに軍隊を派遣し、そこを同化し、文化と宗教と自由と言葉を奪う。
  その絶対的な権限を行使し、その軍事力を動員すれば、いかなる暴挙も可能であろう。チベットで起きたのは暴動であろうか、国家騒乱であろうか。その表現は事実を反映はしていない。チベットはチベットの人たちのものなのだ。世界の目は、何が真実で何が嘘か、見抜く力を既に養っている。いかに強大なる国家であろうと、世界の意識を変えることはできない。
 そして、隣人である日本が、もしも隣人の友人であり続けるならば、その国際的な良識あるあり方について提言する義務を背負っている。少なくとも、オリンピックの参加については、アスリートたちの権利とチャンスを奪うことなき方策で、なんらかの注文はつけてもいいと思う。いずれにせよ、チベットを救うことは、この日本を守ることになる。ここはひとつ、遠い国の問題にとどめるのではなく、我が身のこととして受け取って考えてみた。
2008/03/20

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