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■ 禁煙四年目に突入

◆ 煙たなびく喫茶店
 銀座を歩いた。懐かしい場所である。いちいちの交差点で、少年時代を過ごした風景が鮮やかに蘇る。上っ面の変貌はあっても、ビルディングの土台に変わりはない。三越も時計台もゴジラが銀ぶらした昭和30年当時そのままであるはずだし、西銀座デパートの屋上を走る高速道路も、50年以前に四階の自室から、毎日見下ろしていた風景であるに違いない。
 歩き疲れて喫茶店に入る。松屋の裏側にある地下の店だ。うまいコーヒーを頭に浮かべながら急な階段を降りていく。すると、タバコの匂い。まあ、すぐに慣れるだろう。なにしろ、ボクはヘビースモーカーだったのだから。
 ドアを開いた。すると、燻製工場か火事場と間違えるくらいの煙である。おそらく、ボクの目が見えたなら、霧の彼方に人影が動いているような店内風景だったのだろう。けれども、とにかく疲れている。コーヒーにも飢えている。ボクはコボちゃんを促してテーブルについた。
「いらっしゃいませ」
 感じの良い女性が水を運んできてくれる。けれども、ボクはグラスに手をつける前に立ち上がった。
「悪いけど、出ます」
 この煙の中でうまいコーヒーを楽しむのは不可能。そう判断したからだ。第一、ボクは燻製になるほど上等の肉ではない。
 先ほどの女性に丁寧に謝罪しながらドアを開け、会談を上がる。おそらく、換気扇のモーターでも不調なのだろう。
 タバコの煙が理由で、喫茶店を退出したのはこれが初めてのことである。考えてみれば、ボクが禁煙してから、まるまる3年が経過していた。

◆ 習慣的喫煙からの離脱
 この日記の「習慣的喫煙からの離脱」にも記したように、ボクは2005年7月の旭川医大付属病院に入院する直前からタバコをやめている。まあ、男らしく、きっぱりとやめられたか、というと、それほど大きなことはいえないので、タイトルが「習慣的喫煙からの離脱」である所が、どうにも面目ない。まあ、そのあたりはこの日記のバックナンバーを読んでいただきたい。
 で、とにかく手からタバコが離れた。というか、タバコから手が離れた。そして、だからというわけではないけれど、タバコは中毒で吸うのではなく、癖で吸うのだ、が現在のボクの結論である。つまり、決められれば、断煙は簡単。死んでも禁煙なんか、するもんか。そう思いこみ、失明の恐怖でさえ喫煙習慣の防波堤になれなかったのに、決められた瞬間から、断煙は可能になったのである。もしもニコチン中毒が病気なら、それを克服するのは容易ではない。けれども、喫煙習慣が単なる癖であるなら、心ひとつでやめることは可能なのだ。

◆ 禁煙から断煙へ
 2006年の春、家内のコボちゃんに隠れての一日一本の喫煙がバレてから、ボクはきっぱりと断煙をした。つまり、喫煙を禁じるのではなく、断じるのだ。この禁じると断じるとの間には大きな開きがある。どのくらいの開きがあるかというと、琵琶湖と太平洋くらいの差があるのだ。不出来な比喩だから、説明させていただくが、琵琶湖はいつか大海になれると思って、自分に水を集め続けるが、太平洋には最初から海になるつもりなんかない。つまり、禁煙と断煙には、そのくらいの違いがあるということなのだ。

◆ あきらめればいい
 目が見えなくなったら、どうしよう。そう考え、ずっと不安な気持ちでいた。その自分が見ることをあきらめた瞬間から、盲目で生きる勇気がわいてきた。それが分かっていて、どうしてタバコをあきらめられなかったのだろう。その理由は簡単だ。見ることをガマンしているのだから、タバコくらい我慢しなくてもいいじゃないか。そういう理屈だった。
 禁煙というカテゴリーで語れば、今回で三度目である。つまり、三度目の正直。まあ、ボクはニバツだから、三度目の正直は生まれた星の影響かもしれない。そして、過去の二度の結婚、いやいや、そうでなくて禁煙で考えたことは、この世からタバコが消えた、そう思えばよい、ということだった。ところが、世の中を歩けば、あちらこちらから紫煙がたなびいてくる。テレビにも映画にも、うまそうにタバコを吸うやつが出てくる。そりゃあ、どうやったって、世の中からタバコが消えたとは思えない。

◆ 呪縛からの解放
 ニコチンが切れたら、自分が自分でなくなる。ニコチンが切れたら、仕事ができなくなってしまう。ニコチンが切れたら、明日がやってこない。ニコチンが切れたら、世界が終わる。タバコをやめることは、そういう脅迫間から解放されることだ。これまで、そんな根拠のない思いに、どれだけ支配され、無駄な時間とお金を費やしてきたことだろう。
 禁煙区域が無限に増殖している。飛行機はもちろん、新幹線も全車輛が禁煙。レストランはもちろん、路上での喫煙でも罰金をとられる。んだば、どこさいって、タバコさやれば、いいんだべ?!
 満員電車から解放された瞬間、ポケットからシガレットを取り出し、点火する。人であふれるプラットホームを、歩き煙草でいく。うまい。だからタバコはやめられない。人の迷惑、関係ない。そう信じて生きてきた。けれども、この解放感の裏側にタバコをガマンする飢餓感があった。タバコに点火したい。吸いたい。煙をはきたい。いつだって、そんな願望に支配されていた。
 欲望って何だろう。人間は欲望に支配されている。その考えに支配されて生きている。確かに胃袋が空っぽになれば、血糖値が低下して飢餓感が生じる。放置しておけば、いつか死ぬ。だから食欲は生存本能。生き物であるための防御システムだ。けれども、食欲以外の欲望について、それらひとつひとつを掌に乗せて、じっくりと検証するのも面白い。それら欲望のどれだけが真実で、どれだけが幻なのか、考えてみるのにも価値がある。人生はイリュージョン。そんな幻の中で、人はどれだけ蜃気楼のような衝動に突き動かされていることだろう。

◆ いつも考えること
 若き昔を振り返れば、赤面することばかりである。思い出せば、いたたまれなくなる。昔はよかった。そうは思うが、昔は不自由だった。そうも思う。それは、今ほど欲望のコントロールに巧みではなかったせいだろう。
 枯れた。これが真相かもしれないが、それはそれで悪くない。人間の幸せの本質が、少しずつではあるが、見えてきた気がする。欲望は小さい方が人に迷惑がかからない。楽しみは小さい方が皆と分かち合える。自分の人生の地平線がすぐ目の前にあることを感じながら、それでもまだ本当に価値あるものを見つけたいと願っている。

◆ 7月になって
 2008年の7月になって、物価がまたまた上がった。タスポ導入が全国的に広がった。物価の上昇は生活に影響するが、断煙をしたボクに、タスポ導入は関係ない。とはいえ、面倒なご時勢になったもんだ。
 ガソリン代が上がったので、できるだけ歩いている。東京女子医大の新城先生と旭川医大の笹嶋教授のおかげで、両足はますます快調。毎日50回のスクワットで鍛えた筋肉は、どれだけ歩き続けても、どんなに長い階段でも、へこたれることはない。いろいろな自由を失った自分ではあるが、残された自由を大切にしながら、残りの時間を楽しみたいと願う。
 それにしても、タスポ導入にどれだけの投資をしたのだろう。聞けば、数百億のお金が消えたらしい。どんな考えで、どんなシステムで、誰が支払うかは知らないが、それだけの金額をポケットに入れた向きもあるわけだ。タバコを吸いたいという欲望を利用して、自らの欲望を満たしている連中がいる。まあ、こういう構図があるから、経済が動き、巷に泣き笑いの波紋が広がっていく。愉快と思えば愉快だが、不愉快と思えば、思えなくもない。
 未成年に喫煙をさせたくない。そういう理由で、お金と労力が費やされる。けれどもまあ、青少年の健康を口実にして、ビジネスチャンスを作ることだって認められていいかもしれない。地球温暖化防止を口実に、いろんなビジネスが生まれつつある。カーボンオフセットとタスポ。二酸化炭素とニコチンと、見えるようで、見えないアイテムを扱う点では、なんとなく、どこか似ているような気がしてならない。皆さん、商売がお上手です。 2008/07/03


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