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■ 夏休みはスポーツなのだ

◆ 46年ぶりの慶應義塾
 選抜高校野球、春の甲子園で慶應義塾は初戦で敗退した。けれども、夏の甲子園。46年ぶりの出場である。よくぞ勝ち抜いてきた。自分が生きている間に、こんな楽しみがあるとは想像もしていなかった。
 軽井沢に向かうクルマの中で第一戦を聴いた。高速道路を走っていたから、思い切り塾歌を歌うことができた。慶應義塾の場合、校歌のことを塾歌という。我が母校はやたらと偏屈なのである。
 初戦突破。勝利の塾歌は星野旅館のピッキオのテラスで歌った。まわりは観光客だらけだったし、破ったのは長野県代表だったので、小さな声で歌った。心が躍ったのは応援歌の『若き血』を歌えたことだった。春の甲子園では、1点も得点できず、この『若き血』を歌うチャンスがなかったのである。
 奇跡的。信じられないことに慶應義塾はベスト16にまで勝ち上がった。88年ぶりの快挙とか。ベストエイトを争う相手は沖縄代表。これは強敵である。そして、ボクは沖縄の仲良しからもらった沖縄特産の完熟マンゴーを食べながらこの名勝負を聴いたのである。そして沖縄が勝利した。ボクもマンゴーのおいしさに完敗した。

◆ 気になるアナウンス
 それにしても気になるのが高校野球における実況アナウンスである。
「打ったあ!。取ったあ!」
 テレビでは、どれだけ言葉を省略できるかの実験放送になっているらしく、とても実況放送とは思えない。もちろん、映像があるのだから、自分の目で確認しろ、ということなのだろうが、ラジオの場合もあまり親切とはいえない。テレビ中継経験者によるアナウンスなのか、言語省略の悪癖がついてしまった影響なのか、字幕スーパーに代わる情報伝達の配慮が少ない。だから、途中から聴いた場合、どの都道府県の代表なのか、なかなか判明しないし、チェンジにならない限り、得失点差も分からない。それに情報の不正確さが気になる。解説者に間違いを指摘されてるアナウンサーは様にならない。
 とはいえ、これには個人差があるので、気持ちのいいアナウンサーだっている。けれども、慶應義塾第三戦を担当したアナウンサーは個人的に好きになれなかった。母校が負けたからいうのではない。他のアナウンサーは「慶應義塾」と、正確に表現してくれたのだが、問題のアナウンサーは「慶応」、「慶応」とやたらに呼び捨てだった。そもそも、慶応ではないのだ。慶應義塾が正しい学校名であって、「応」ではなく、「應」のつもりで発音してもらいたいのだ。それに、伝統の応援歌『若き血』を『陸の王者』と呼んでもらいたくない。そりゃあ、慶應義塾は長い期間、甲子園にはご無沙汰だったから、 無理のないことかもしれないのだが。そう。『若き血』で「陸の王者、慶應」と歌ってはいても、我が母校は陸の王者としての貫禄を長く失ったままでいる。正月の箱根駅伝で、箱根の山まで慶應義塾を応援に出かけたのは、ボクが慶應義塾志木高校に在籍中のことだった。そして、もう長いこと、箱根駅伝に慶應義塾は東条していないのだ。

◆ 最後の早慶戦
 ハンカチ王子のおかげで、六大学の早慶戦もやっとテレビ中継してもらえるようになったらしい。ナガシマが東条する前までは、野球といえば早慶戦だった。信じる人はいないだろうが、その昔、早慶戦は世界三大学生スポーツのひとつだったのだ。
 平和だからこそスポーツなのである。戦時中、野球用語は敵性用語だから、ストライクやボールは「よし」とか「だめ」とかいわされていた。やがて戦火も激しくなれば、学生が野球をやるどころか、戦場に駆り出されるようになる。いわゆる学徒出陣である。
 1943年10月16日、早慶の有志による最後の早慶戦がおこなわれた。慶應義塾は早稲田に惨敗したと聞くが、ライバル同士がゲームをする喜びに比べたら、勝ち負けはどうでもよいのだ。そしてアスリートたちは戦地にちらばり、命も散らしていったのである。

◆ どうしてもドメスティックになってしまう
 母校を愛する気持ちは誰にとっても同じである。ボクが慶應義塾の一員になったのは45年前のこと。そして、母校が甲子園に出場したのが46年ぶり。つまり、ボクにとって夏の甲子園で慶應義塾を応援するのは始めてのことなのだ。さて、母校と母国、どちらが大切かは議論の価値ありだが、甲子園にせよオリンピックにせよ、自分に近いグループを応援するのが人情である。
 ボクは中国が好きである。文化も料理も好きである。三国志ではどれだけ興奮したか分からないし、実際の北京も上海も楽しかった。最初のヨーロッパの放浪では、中国の人たちに、滅茶苦茶親切にしてもらって助けられた。今も昔も中国人といえば、すぐに好きになってしまう。国家や主義、体制と個人は別なのだ。

◆ 北京五輪開会式
 さて、その国家主義の中国が開催するオリンピック。最初はまるで興味のなかった北京五輪に、ここにきて注目している。というか、はまっている。どれだけ馬鹿騒ぎになるのか、興味津々なのである。
 開会式もまるで興味はなかった。見るつもりも、聴くつもりもなかったのである。まあ、盲目だから見たくても見られないのは口惜しいが。くそ。
 けれども、世界の総人口の五分の一を擁する超大国が、どんなオリンピックをやらかすのか、興味がないといえば嘘になる。で、ラジオをオンにしたらあきまへん。最後まで付き合ってしまったのだ。赤塚不二夫は亡くなってしまったのだ。その昔、新宿のクラブでオゴってもらったことがあるので、ボクは感謝しているのだ。キスされそうになったけど、いい人だったのだ。天才バカボンのパパ、好きだったのだ。ご冥福を祈るのだ。しまった。またもや引込み線に迷いこんだ。

◆ 歴史はバーチャルじゃないでしょう
 ラジオで見る開会式。言葉だけが頼りである。アナウンサーの語る情景が目の前に展開している光景なのか、巨大スクリーンに投影された映像なのか、それは見えてこない。いや、もしかしたら手元の資料を読んでいるだけかもしれないのだ。
 それにしてもドエライことをやる。天安門広場から鳥の巣スタジアムまで巨人の足跡がずしいん、ずしいんと近づいてくる。それが花火なのだから驚く。ボクはあの広大な広場から天を歩いてくる巨人の姿を想像して感動してしまった。そして、それを目撃した北京市民の興奮に羨望した。
 ところがだ、あれがCGだったのだ。インチキだったのだ。テレビ画面に飽き足らず、屋外に飛び出して天を仰いだ北京市民は何を見たのであろうか。もしかしたら、開会式の夜は戒厳令が布かれていたのかもしれない。
 東京オリンピック。16歳のボクが仰ぎ見た、あの青い空に描かれた巨大な五輪の飛行機雲はCGではなかった。地球が映像ネットワークで結ばれた21世紀で、歴史の目撃者はどこへいけばよいのだろう。
 さて、どれだけの人がラジオだけの開会式を見たことか。そして、どれだけの人が実像を把握できたのだろうか。ボクはアナウンサーの表現に不満を感じた。彼の言葉はボクのイメージに訴えることがなかったので、ボクの開会式は2008の豆人形がぴょこぴょこ動くおかしなスタジアムの光景になってしまったのである。
 まあ、アナウンサーも解説者もお仕事だからお疲れ様。とにかく出演者も観客も、ばたばた倒れる猛暑の中の4時間であったらしいから、歴史の番人になることは過酷な業務であるのだ。

◆ 関係者 取らぬメダルの 皮算用
 いやあ、恥ずかしい。メダル獲得の瞬間の解説者の絶叫にはあきれる。そりゃあ競技関係者だから解説に携わっておられるのだろうから、喜びは理解できる。もしかしたら、メダル獲得の瞬間は彼等の立場にも大いに影響があるはずだから、はしゃぐのも無理はない。けれども、少しは解説者らしくしてもらいたい。放送局だって、私設応援団を放送席に呼んだわけではなかろう。
 ところが、金メダルの獲得シーンは繰り返し放送される。つまり、解説者の抑制なしの絶叫を繰り返し聞かされるわけだ。これは聞かされる我々もたまらないが、解説者本人だって恥ずかしいに違いない。いや、もしかしたら「前畑頑張れ」以来、応援放送は恥ずかしくないことにされているのかもしれない。だが、ボクは思う。まともな放送を志すのなら、解説者をきちんと教育すべきである。

◆ 客観的視線
 映像なしの中継は言葉だけが頼りである。客観的な観察が基準となる。けれども、どうしても神経がドメスティックになっているから、視線もヒイキ目になっている。相手の優勢を認めないし、日本への不利なジャッジを許さない。公正な審判がされていても、実況に動かされている我々の精神は不安定になり、好戦的になってしまう。力を数字で表される水泳や陸上競技は別として、柔道やレスリング、野球などは審判の判断が勝敗を大きく左右するから、解説者がジャッジに不満を抱いたりすると、たちまち我々の気分も楽しくなくなってしまうのだ。

◆ 下手くそなインタビュー
 インタビューが下手くそだ。流行語大賞の候補にでもしたいのか、特別な言葉を引き出そうと、おかしな誘導尋問になっている。金メダル獲得のアスリートの素直な感動を伝えようとしているようには思えない。あらかじめ準備した質問を投げかけ、アスリートに予定調和を強要している。4年間も筆舌に尽くしがたい精進を続けてきたアスリートに、競技以外でプレッシャーをかけるのはやめにしようよ。
 それから、オリンピックの野球くらいは鳴り物なしで応援しようよ。ピッピコ、ピッピコ、呼子を鳴らして、どこかで耳にしたような応援をやっている。そりゃあ、応援する気持ちは理解できます。ボクだって、野球で世界一になって欲しいと願ってはいる。けれども、国際競技なんだから、お上品にやってもらいたい。

◆ 強引なる結論
 数えてみると、夏の甲子園に慶應義塾が参加したのが46年前で、東京オリンピックはその翌年の出来事だったのである。ボクは高校1年生。伯母に連れられて代々木体育館で開かれた体操競技の決勝を見にいった。体操日本。そのとき、メダルを何個獲得したかは覚えていないが、団体で金メダルを獲得する瞬間を目撃した。山下跳びの山下選手が目の前で10点満点を出したのは体操の歴史最初の出来事ではなかったか。体育館にあがる日の丸、流れる君が代。こうした場面に対面できたことは不思議としか表現できない。それは武道館でビートルズを体験したことにも通じる。あの時間、あの空間に自分がいた。こうした感動体験のために、世界各地でオリンピックが開かれるのだとボクは思いたい。
 祖国の応援を通じて、世界の広さと力を実感すること。それがオリンピック。チャフラフスカ、アベベ、タマラプレス。東京オリンピックで記憶に刻み付けられたカタカナの名前。世界が自分の隣にやってきた。やがてボクが世界の人たちに会いにいく。オリンピックが金儲けのチャンスであれ、政治の道具であれ、この馬鹿騒ぎが個人を目覚めさせる好機であるならば、ボクはオリンピックに拍手を送りたい。国家と国家が衝突しても、表彰台でその代表と代表が抱擁を交わすオリンピックに拍手を送りたい。人間が闘う生き物である限り、いつまでもルールある戦いを続けてもらいたい。
2008/08/21



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