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◆ 20人にひとりは障害者   2005/06/08
 政府の障害者白書とやらによると、日本人の20人にひとりは障害者であるという。そうか。障害者であることは特別なことではない。それを再確認させられた思いである。
 身体障害者、精神障害者、知的障害者。すべて合わせて20人にひとりの割合である。日本の平均的家族が何人で構成されているかは知らないが、家族親戚に障害者を持たない個人はほとんどいない。それが現実であろう。なのに一般の障害者に対する認識は低く、ひどくお粗末だ。ボクが障害者手帳を取得し、白い杖を携えて街を歩くようになってから20年近くが経過しているが、毎日の暮らしでそういう印象を否定できない。
 若年の障害者を別にすると、高齢者になればなるほど障害者の比率が高くなる。年齢を重ねれば重ねるほど身体上の困難が増加するというわけだ。生老病死。人は生まれ、老いて病み、やがて死んでいく。これは誰も逃れなれない宿命である。
 20代からすべての年代を調査すると、その8割が高齢化に不安を抱いているという。それなのに年金を支払わない若者が圧倒的多数である。個人の意識では老人になることを恐れているのに、老人になった場合のイメージが不測しているのだ。つまり想像力の欠如が増幅しつつある。
 自分だけは若者のままでいられる。まさか、そう考えている人はいないだろうが、年金を支払わずに平気でいられるとは気楽といえば気楽、脳天気といえば脳天気。けれど、ボクも若いうちは自分が老人になったときを想像できないでいた。遠い未来には脳天気。もしかしたら誰にとっても当たり前のことかもしれない。
 高齢者の政治家が未来に責任を感じているかどうか。自らが死んだ後の世界をどれだけ気にしているかどうか。さあ、どうだろう。若者が老人になる遠い未来に責任をとろうとしないのと同じように、老人たちも遠い未来にビジョンを抱いてはいないかもしれない。目の前のニンジンばかりに気をとられ、遠い未来を見ないから、とうとう日本はやばくなった。想像を絶する借金を抱えた日本が破産したら、どんな状況が訪れるのだろう。正確な予測を誰ができるのか。地球がパンクした後の世界を誰が助けてくれるのか。いざとなったら責任をとれる国家も人物も存在はしないだろう。
 世代や性別に関係なく、すべてはお互い様。助け合わなければ個人は生きていけない。この大原則を忘れつつある社会は必ず崩壊に向かう。自分が危機に陥ってからでは遅い。さて、後悔する前に気づく機会はあるのか。


◆ 世論調査を読む力 2005/06/08
 英語検定の成績でいうと、アジアのトップがフィリピン、日本は18位とラジオが伝えていた。そうか、フィリピンがトップかあ。あそこの公用語は英語だからなあ。それにしても英語に金をかけてる割には、日本は駄目だなあ。そう納得するには早い。
 詳しく聞いてみると、この英語検定の受験者はフィリピンで93人、日本では一万人以上であるという。これは統計を結論するにはあまりに不十分な数字的資料である。いや、このデータでは国民の英語実力を測る根拠にはならない。
 世間に流される統計や数字に惑わされるのは危険である。世論調査やアンケートは設問次第でどうにもなる。マークシート方式の調査だったら、選択範囲を操作することで、意図する結論を強引に引っ張り出すこともできるだろう。総理大臣の支持率など、首をひねるような結果が出てくるのもそのせいかもしれない。調査主体やその対象、調査内容やその文面を精査しなければ真実は浮かんでこない。
 ええっ。本当にこの国民はあの首相をそんなに支持したり信用してるの?。もしかして馬鹿じゃないかしら。
 ボクは日本人を馬鹿と思っていないから、調査やアンケートをあまり信用してはいない。それよりも数字のマジックに心を奪われることが怖い。個人
の意識や思いは数字には表れてはこないのだ。ボクたちに世間で流される文字や数字の真実を読む力が欲しい。


◆ 相互信頼は個人の想像力が養っていく 2005/06/04
 ガードレールに謎の金属片。今いちばん気になるニュースがこれだ。今朝の段階では全国で1万8千箇所で金属片が発見されたとか。いろいろな可能性が語られているが、この金属片によって大怪我をした人たちがいることに衝撃を覚える。
 ガードレールに接近して走るのは自動二輪や自転車が多い。外部から身体を保護するものがないから、ただでさえ危険な乗り物である。もしも予測もしない鋭利な金属片が進路に存在すればひとたまりもないだろう。
 ボクたちは相互信頼によって社会を構成している。安全を前提として活動している。そこに予想もしない危険が潜んでいるとき、他社への信頼が裏切られる。安心して暮らせる世の中が崩壊してしまうのだ。
 ボクは盲目となったとき、他社を百パーセント信頼して生きていこうと決心した。困難なことだが、目の見えない者にとって、それは選択の余地なき決断なのだ。道を歩くときは白い杖、シグナルステッキを携えて歩く。自分という人間は目が見えません、と宣言しながら歩くのだ。これは目の見える人たちへの信頼を前提としたアピールである。けれど、目が見えているのに前方を見ない人たちもいる。見えているのに見えていない。まさか、と思うけど、別に非日常の出来事ではない。誰だって考え事に気を取られていれば有り勝ちなことだろう。自らの健康だった時代を振り返れば、そんな反省はいくらでも思いつく。
自分の行き届かなさや想像力の欠如で誰かが傷つく。これは万人に共通する盲点かもしれない。盲点だらけ、正真正銘の盲目であるボクは周囲の人たちの反応が見えないから、よくこれをやってしまう。姿の見えない他社への思い遣りを忘れがちになってしまうのだ。これをカバーしてくれるのが家内のコボちゃん。いつも一緒にいるから最も冷静にボクを観察している。この批判精神のおかげでボクは反省の機会を得ている。夫婦という最小の社会でのバランス感覚が、そこはら広がっている世間への想像力のヒントになってくれるのだ。
 盲導犬アリーナと外を歩いていた時代、ボクはずいぶん痛い思いをした。歩行者の荷物、自転車のハンドル。金属やプラスティックの突起物が予測できないスピードでいきなり衝突してくるのだ。これは痛い。かなり痛い。おそらく目の見えている人には想像しにくい痛さと驚きだろう。これと同じく、ガードレールの鋭利な金属片も恐怖と衝撃の苦痛を社会に与える。
 道路システムに潜む鋭利な金属。これは道路走行の安全を守るために設置されたガードレールへの信頼を根底から破壊してしまう。もしもこれら金属片の一部でも故意の産物であるならば、それは市民生活へのテロに他ならない。他社を信用できない。社会を信頼できない。暮らしの安心が崩壊される。不安が増殖する。他人の幸せを望まなくなる。いくらでも心配な結果が予測される。
 けれども、いつになっても社会を不安に陥れる行為が続く。結果を考えない行動がなくならない。線路の置石、煙草の投げ捨て、自転車や自動車を運転中の携帯電話、酔っ払い運転、駅前の自転車放置、前方不注意の歩行、エスカレーターの駆け上り…。きっといつか法律が改正され、どんどん重罰化が進んでいく。そして暮らしにくい世の中になっていく。ほんの一部の思考停止な行為が市民生活の自由を奪い、首を絞めていくのだ。
 人間はむずかしい。どうしてもっと簡単になれないのだろう。みんなの幸せを願う。誰かのいい思い出を作る。そう考えられれば、世の中はもっとシンプルになれるのに。
 最後に、ガードレールの鋭利な金属片が誰かの故意によるものでなく、偶然の産物であることを心から祈っている。


◆ やっぱり巨人が気になります 2005/06/05

 野球の季節になると、ボクの好きな番組がラジオから消えてしまう。仕方がないから野球中継をつけっぱなしにして仕事をする。どうせ巨人軍中心の放送ばかりだから気にならないだろうと考え、BGMにしているのだ。けれど、なんで巨人戦ばかりが放送されるのだろう。最近はそれが面白くない。巨人以外のチームを応援する立場になって初めて知る苛立たしさである。そうか。巨人軍を中心にしなければならない、そんな仕組みがあったんだ。
 川上以来の巨人ファンであったように思う。月刊少年雑誌の影響だ。それが我が家にテレビが出現し、ナガシマをブラウン管で見るようになってからは筋金入りの巨人ファンになってしまった。
 小学5年生のときにテレビで見た日本シリーズ。ナガシマとスギウラの対決だ。ボクの記憶だと、この対決から早慶戦(慶應義塾の立場からいうと慶早戦)を中心とした六大学野球からプロ野球へと人気が爆発的に移行していった。野球的にいうと、つまりプロ野球のビッグバンだ。
 運動音痴のボクでさえ、グローブとボールで壁を相手にキャッチボールをするようになる。野球漫画に夢中になる。ナガシマの影響力は偉大だった。
 けれど最近の巨人軍にはまるで魅力を感じない。本当の巨人軍は何処へいってしまったのだろう。札束を積んで召集した外国人選手。他チームの看板選手を強奪して並べた強打者ばかりの打線。もともと巨人には優秀な人材がいくらでもいるはずなのに。どうして彼らを育てチャンスを与えないのだろう。実績ある選手ばかり集めても、みんなすぐに下り坂。年寄り軍団に未来はない。
 気になる球団は落合監督のドラゴンズ、札幌のファイターズ、仙台のイーグルス、福岡のホークス、広島のカープス、横浜のベイスターズ。理由はその土地が好き、選手が好き、監督が好き、というように様々だ。けれど残念なことに巨人戦にならなければラジオでの中継は聴くこともできない。唯一NHKだけが巨人中心のプログラムは外している。それでも個人の興味で選ぶことはできないのだ。
 今夜もラジオから野球中継が流れている。調子のいい手拍子、流暢なアナウンス。悪くないBGMだ。ボクは仕事に集中する。けれど少しでも試合の流れが気になると、これがいけない。もしも巨人軍が負けていたりすれば、やはり気になるのだ。今の巨人なんて負ければいい。そう考えているはずなのに、負ければやはり面白くない。意識の領域外から不思議な感情が浮かんでくる。頭ではなく、胸から涌いてくるのだ。
 そんな気分でいたら、あのナガシマが帰ってくる、との噂。元気になったナガシマが東京ドームに現れるというのだ。さあ、どうする。テレビを見なくなった巨人ファン。巨人に背を向けた自分自身。巨人軍を裏側から操作する影の存在が企んでいることは充分に分かってはいる。けれどナガシマは特別だ。落とし穴だと知ってはいても、やっぱり口惜しいけど応援しちゃうんだろうな。嫌いになりかけた巨人軍を。


◆ プリオシン海岸のカラス 2005/05/30
 プリオシン海岸とは宮沢賢治の作品『銀河鉄道の夜』に登場する場所の名前である。主人公のジョバンニとカムパネルラはこの海岸で化石を発掘する大学士に出会う。それは古代に栄えた牛の祖先、ボスという原始哺乳類の骨格と足跡の化石なのだ。骨だけではない。ジョバンニとカムパネルラは大きなクルミの化石も発見する。ボクは『銀河鉄道の夜』の中でも特にこのシーンのイメージが大好きだ。
 2005年5月28日、この場面のモデルとなった北上川のイギリス海岸を訪れた。生前の賢治が愛した場所で、「イギリス海岸」とはその作品や詩によく登場する賢治独特の地名である。化石を秘めた泥岩の川岸。ボクにはボクなりのイメージがあって、一度は目撃したい場所だったのだが、実際に訪れたのは失明してからというのは残念な話だ。ところがこの場所には秘密があった。その秘密のため、ボクは自分が盲目であることに感謝することになる。けれど、その秘密については賢治ファンをガッカリさせることになるかもしれないので、やはり秘密にしておく。この秘密を知りたい人は、この現場を訪れるしかないだろう。
 けれども魅惑的な情報もある。イーハトーブ・アート・ステーションのメンバーによれば、いまでも泥岩からクルミの化石が出てくるそうだ。不勉強のため知らなかったことを恥じるが、本当にイギリス海岸ではクルミや動物の足跡の化石が出土していたらしいのだ。ならば、そのクルミとはどんなクルミなのだろう。
 北上川の上空から様々な鳥の声が聞こえてきた。ホトトギス、ウグイス、スズメ、ツバメ、ヨシキリ、トンビ、そしてやっぱりカラス。カラスってやつは本当にどこにでもいる。
「あらら、カラスがトンビをいじめて遊んでる」
 家内のコボちゃんがボクに実況放送を開始した。それによると、空中を優雅に飛行しているトンビの尻尾をカラスがつっついてからかっているらしいのだ。つっつくたんびにカラスがカアと鳴く。その攻撃にトンビは抵抗もできずに迷惑がっている。といってもカラス全員がトンビを総攻撃しているわけではない。一羽のカラスだけが特別にこのトンビだけをいじめているのだ。他のカラスもトンビもこの闘争というか遊戯をまるで無視して優雅に飛んでいる。一羽のカラスだけがこの遊びを楽しんでいるのだ。相手をさせられているトンビといえば実に迷惑そうで、つっつかれるたんびにバランスを崩している。いつからこの二羽はこんな関係にあるのかは分からないが、カラスは遊びを発明する天才であることに間違いはない。本当をいうと、ボクもコボちゃんもカラスのこんな茶目っ気が大好きだ。
 カラスのエピソードについてはこのホームページ内の「盲導犬アリーナ日記」に記しているので、ここでは省略する。とにかく目の見えている頃からずっとボクはカラスが大好きだ。今でも近所のカラスを固体識別して楽しんでいるし、カラスはカラスで、ときどきボクを観察しているらしい兆候がある。気がついたら隣でカラスが羽を休めていた、なんて経験もあるくらいだから、ボクがカラスから嫌われていないことだけは確かだ。
 石原都知事がカラス退治を宣言して、今年になってから東京のカラスが激減したというニュースが流れた。本当かなあ。ボクは首をひねった。確かにカラスの大集会をあまり聞かなくなったような気もする。けれどボクが固体識別をしている「ちょんわガラス」や「バルタンガラス」、「わんわんガラス」や「カッコーがらす」は健在だ。個性的な連中だから知恵があって、石原都知事の企みを見破っているのかもしれない。まあ、いずれにしろ彼らが元気に暮らしていることはボクには嬉しい事実だった。
 しばらくしてカラスについてまた別のニュースが流れた。東京都はカラスのカウンティングに失敗し、間違ったデータを出していた、というのだ。カラスの数を調べるには、夕暮れに帰巣するカラスの個体数を数えるのだが、これが実に難しい。「野鳥の会」あたりが調査するならまだしも、アルバイト程度の人材が正確にカウントなどできるはずがないと専門家は証言している。それを聞いてボクは笑った。やっぱりね。ボクの「ちょんわガラス」が簡単に逮捕されるわけがない。本当に捕獲されて処分されたカラスもいるのだが、それは未経験の若いカラスばかり。知恵と経験に恵まれたベテランガラスは東京都のトラップをあざ笑いながら都会の空の自由を楽しんでいるのだ。
 ただ心配なこともある。若いカラスが減ることにより、時間をかけて個体数の減少があるだろうとの見解が存在することだ。ただし、カラスの寿命については正確な調査がないらしく、あと何年で個体数の減少が起こるかも予測できないでいることはボクにとっては救いとなっている。
 先入観でカラスを嫌いにならないでほしい。鳥類の中でもカラスは最も興味深い存在だ。観察次第ではいくらでもボクらを楽しませてくれる。無闇に恐れなければ彼らも襲ってはこない。カラスは人間を実に緻密に観察しているから危険な人間や馬鹿な人間をすぐに識別する。だから彼らと同様に人間もカラスをよく観察するといい。お互い相互理解を進めて楽しい都会生活を送りたいものである。カラスはカアカア、人間はゲハゲハと笑いながら。
 イギリス海岸を訪れた翌日、ボクらは宮沢賢治記念館を見学した。まあ、ボクの場合は見学ではないかもしれないが。そこでコボちゃんの見つけてくれたのが「バタグルミ」の化石のレプリカ。ジョバンニが手にしたあのクルミだ。南部鉄製の実物大の置物は今、目の前の仕事机に鎮座していて、ときどきはその置物に触れながら、ボクはプリオシン海岸の大学士の気分になって空想を楽しんでいる。


◆ 話せば分かる 
  2005/6/1
「話せば分かる」
 ひとつの国を代表する人が、こんなことをいっている。それも公式の場所で。図太いというか、能天気というか。そりゃ、お互いの立場はあるでしょう。領土問題にせよ、靖国神社のことにせよ。けれど、話したって、取引をしない限りは問題なんか解決しない。話して分かるくらいなら、世界から戦争なんかとっくの昔に消えている。


◆ 芋虫新幹線の芋虫 2005/05/30
 目が見えている頃、ボクは新幹線を芋虫の姿に置き換えて描くことが好きだった。1981年のカレンダー『夢の翼』や愛育社から再出版された『宇宙からきたネコ博士』にもそのイラストレーションが掲載されている。
 2005年5月、ボクは生まれて初めて宮沢賢治の故郷、花巻を訪れた。その帰り、新花巻から東北新幹線に乗るため、新花巻駅に立つ。『銀河鉄道の夜』の里を轟音を発して新幹線が通過していく。小さな軽便鉄道とは比較にならない馬鹿馬鹿しいほどのスピードで。けれど、いくら威張ってみてもボクの空想世界ではただの芋虫列車なのだ。失明してから20年近くの時間が経過しているから現在の形を正確には知らないが、おおよその形に違いはないはずだ。
 座席に落ち着くと、ボクは思い切り背伸びをした。手先が前の背もたれに触れる。手をひっこめると指先に違和感がする。柔らかいコロコロとした触感だ。あれれ、朝食の飯粒でもつけてきたかな。それにしては少し大きいぞ。
「これ、ごはんつぶ?」
 ボクは窓際のコボちゃんに聞いた。
「やだ、虫じゃない」
 コボちゃんはボクの手先からコロコロとした物をはらった。彼女は虫が大の苦手なのだ。
「どんな虫?」
「毛虫」
「じゃ、毒があるかもしれない。どんな色の毛がはえてるの?」
「毛、はえてないよ」
「だったら、毛虫じゃないよ。芋虫だよ」
「そうよね、芋虫よね」
「死んでるのかなあ」
「丸くなって、動かないみたい。あれ、ちょっと待って。少し動いてる」
「じゃあ生きてるんだ」
 コボちゃんはティッシュペーパーを取り出した。
「このままじゃ、誰かに踏まれてしまう」
「おそらく踏むとしたらボクだろうね。目が見えないから」
 コボちゃんはティッシュペーパーで虫を包むと持ち上げた。虫は苦手だけど、どんな命も大切にするのが彼女のいいところだ。
「草のある場所に連れてってあげる」
「東京駅にも新宿駅にも草はないね」
「家の前の遊歩道」
「世田谷まで連れていくんだ?!」
「死んじゃうかなあ…」
「おそらくね。新幹線の車内は乾燥してるから」
「じゃ、お水をあげましょう。ペットボトルのお水、あるわよね」
「あんまりかけると、おぼれちゃうよ」
 コボちゃんはティッシュペーパーの一部を慎重に濡らした。
「あれれ、虫さん、水を飲んでるみたい。元気に動き始めたわよ」
「よかったね。さすがは芋虫新幹線の芋虫だ。虫のくせに馬力があるよ。じゃ、ボクは少し眠るから」
 うとうとしていたらコボちゃんの声がした。
「ねえ、トイレにいってくる。虫さん、どうしようか?」
 コボちゃんはトイレを我慢して虫を包んだティッシュペーパーを後生大事に抱えていたのだ。
「このコンビニ袋にいれとくといい。これだったら窒息しないから」
「そうね」
 東京駅に着いたら外は雨だった。かなり激しく降っている。天気のよかった東北から雨降りの東京に旅をしてきた芋虫は、ずぶ濡れになって風邪などひかないだろうか。
 帰宅するとコボちゃんは真っ先に芋虫を遊歩道に連れていった。あの芋虫が蝶になるのか蛾になるのかは分からない。けれど、もしかして世田谷の遊歩道に東北にしかいない昆虫が出現したら、それは間違いなくあの芋虫の成長した姿なのだ。



◆ 世界で起きる事件のすべては自分の中でも起きている
   (2005/5/27)
 毎日のようにむごたらしい事件が起こっている。それをマスコミが報道する。悲しみにくれる関係者に無遠慮なマイクが向けられる。ときとして裁判官のように責任者を弾劾する。そういうとき、ボクは自分の立場をすべての立場に置換して考えることにしている。
 通勤電車で突然の死を迎える無念さ。懲罰を恐れてスピード違反をする運転手の焦り。惨劇を目前にして職場放棄をして救助活動をする会社員の勇気。自らを正義と自認するコメンテイターの。経済と安全を計りにかける経営者の心理。事情聴取される車掌の家族を思う心。事故の処理に負われる職員の嘆き。
 どの立場に自分を置かれても不思議ではない。そこに自分がいなかったのは単なる運命の遊戯でしかないのだ。ボクには誰を責める権利も許されてはいない。想像力。そこを入り口にしてすべての事件を自らの責任と考察する心のクリアランスがあってもいいように思う。どんな存在も運命には逆らえない。与えられた運命の独房の中で、それぞれの個人が闘っているのだ。その闘争に対して、想像力という優しさの物差しで考える習慣が、この世間に広まるといいなと願う。



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