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■マニアの自殺行為   2005/09/30

 理解に苦しむ。世間のガンマニアという人種が変質してしまったらしいのだ。ガンマニアといっても癌の愛好者たちのことではない。まさか、そんな人たちがいるとも思えないが。いや、失礼。悪質な冗談になってしまったかもしれない。けれど、くだらないジョークにはそれなりの理由がある。つまり、ボクらの世代でいわれたガンマニアと、現在のガンマニアには東京・ニューヨークくらいの開きができていて、ひらたくガンマニアといっても通じない時代になっているのかもしれないからだ。
 知っている人たちに笑われてしまうかもしれないが、形式的にガンマニアを説明させてもらう。東映の「七つの顔を持つ男」シリーズや日活の「渡り鳥」シリーズでの影の主役は拳銃であった。つまりピストル。ところが、このピストルはお粗末な代物で、ちゃちな白煙が銃口から出るだけの、単なる黒い塊でしかなかった。要するに、これはピストルです。煙が出るということはですね、弾丸が発射されましたという合図でして、弾丸が命中した相手は死ぬことになっています。ですから、そのつもりで映画鑑賞をお続けください。という制作側の意図を伝達させるためだけの小道具でしかなかった。
 この非常事態で登場するのが銃器に対して異常に情熱を燃やす連中である。彼らを銃器愛好者、ガンマニアと呼ぶ。
 彼らは胸の内で絶叫する。アクション映画でリアルなピストルが出てこないとは不愉快千万。これではアメリカの西部劇に永遠に届かない。いやいや、それどころではない。石原裕二郎や小林明の歌舞伎の伝統を受け継いだ芸術が、シェークスピア舞台伝統の継承者たち、ゲイリー・クーパーやジョン・ウェインの演技に与えられる銃器類のリアルさで、作品評価において絶望的な距離をおかれてしまうではないか。とばかりピストルという小道具にこだわるのだ。けれども、これらは単なる口実。銃器愛好者たちはリアルなピストルが登場する映画であれば、役者の演技などどうでもよいのだ。もしもピストルが本物であれば喜びは有頂天に達する。
 そういうマニアたちが東映か日活の映画館を出ると、こんな言葉を遣り取りする。
「本物そっくりだったよな」
「ああ、あの火花、すごかった。ただの花火とは思えないな」
「煙だってリアルだったよ。空砲じゃないかもしれないぞ」
「それに、見たろ。あの銃口。ライフルが刻んであったぞ。やっぱり本物なんだ。米軍の兵隊に高い金を支払って調達したのかもしれないぜ」
「それはないと思うよ。ほら、本物の拳銃を使用して逮捕された映画監督、いたじゃないか」
「でもさ、高橋英樹がルガーの最後の一発を発射した瞬間、トグルジョイントが上がったままになったろ。あれって、絶対に本物だと思ったな」
「ああ、尺取虫遊底が確かにロックされてた」
「すげえリアル」
「ステージガンの極致だね」
「制作者に拍手」
「万歳」
 ガンマニアにとって西部劇やアクション映画に登場する銃器たちは、それらを扱う人物以上に注目を浴びる存在だったのだ。
 アクション映画の銀幕に、突如としてニュータイプのヒーローが出現した。クールなキャラクターである。ハンサムでスマートで女にもてて、おまけに殺人許可証を所持するスパイという設定である。彼の名前はジェームス・ボンド。殺しの番号が007。そして主人公と同等の輝きを発する銃器や小道具たち。やがて到来したブームは日本人をある確立で下町の秘密諜報部員に仕立ててしまった。ダークスーツで意味ありげなアタッシュケース。そんなファッションが目につく繁華街に「ボンドショップ」という看板が出現する。モデルガンクラブ、MGCが経営するモデルガンショップである。目印はショーン・コネリー演ずるゼロゼロセブンの勇姿。誘われて入れば、店内には有名な銃器メーカーの生産する拳銃のレプリカが並んでいる。コルト、スミス・アンド・ウェッソン、ワルサー。高価な玩具である。本物そっくりの出来上がり。リアルな形状と動作。ボクらは小遣いと相談しながら模擬銃器のコレクションを夢見た。
 だが、モデルガンは高価な玩具なのに、弾丸一発も発射できない特徴があった。銃口の真ん中にヘソがあって、そのヘソが弾丸の発射を阻止しているのだ。銃口から飛び出すのは火花と白煙と破裂音だけ。そして自らの手で作動させ、スライドから排出される黄金のカートリッジ。けれど模擬銃器愛好者たちはそれで充分だった。ボクら銃器マニアの少年たちは、モデルガンを構えるだけでアクション映画のヒーローになれたのである。
 このように、本物の銃器とは異なり、モデルガンの最大の武器は弾丸が発射されない点にあった。使用金属が亜鉛ダイキャストのボディーだから、重量の割合には強度に乏しく、改造には不向きという構造になっていた。モデルガンの武器が弾丸の発射できないこと、というのはそれ故だ。だから、モデルガンは規制の対象にはならないと業界もマニアも楽観していた。ボクらのモデルガンに対する憧れは、そのスタイルだけにあったのだ。ワルサーPPKを構えれば、気分はゼロゼロセブン。それだけでいい。もしも弾丸が発射できるモデルガンがあったとしても、それを購入して人や生き物を殺傷しようとは夢にも思わない。つまらないことをしてリアルなモデルガンを失い、ブリキで出来た玩具などで満足なんかしたくない。それが健全なるガンマニアのライフスタイルだった。
 ボクはMGCのファンであったが、モデルガンメーカーは複数存在した。 それぞれの企業戦略には特徴があり、中にはリアルさを強調するあまり、本物に近い構造の精巧なモデルを生産するメーカーも出現した。けれど、それらは非常に精巧な玩具であっても、一般人にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。だが、どこの世界でも特殊な人種が存在するものである。
 とうとう悲劇が起きた。一部の部品を交換して、モデルガンを殺傷能力のある武器に改造する連中が現れたのだ。無論、これらはプロの仕業である。やがて改造モデルガンは闇のルートで販売され、結果として銃刀法違反で改造モデルガンが摘発されるようになる。モデルガンは善良な市民から白い目で見られる反社会的な批判対象物に転落していったのである。それだけではない。ただのモデルガンが強盗事件を発生させる。これらはモデルガンの魅力、本物そっくりであることの悲劇であった。
 イラストレーターになれて、ボクがそろそろ高価なモデルガンを購入できるようになった頃、悲劇はやってきた。モデルガンの徹底的な規制である。金属製モデルガンは、いかに構造的に安全対策がなされていても、その色は黄色か金色でなくてはならない、というお達しが発せられた。モデルガン業界とマニアはパニックだ。とんでもない色彩感覚である。黄色いピストルとは、桃色ペリカンを阪神タイガースの虎模様に塗り替えるより破廉恥な発想だ。おまけに火花と煙の飛び出す銃口と銃身は金属で密閉された。激発させれば、銃声はすれども、おかしな場所から火花や煙が噴出する。うわあ、興醒め。そんなん、ピストルじゃないわい。恥ずかしくて、ボクはガンマンだとか、秘密諜報部員だとかいってられない。ナルシズムに浸る密かな楽しみともオサラバだい。助けてくれ。けれど、マニアの反対絶叫も空しく、規制は実行された。
 金色に輝く金属製モデルガンの人気がどれくらいのものだったか、ボクにはどうでもよかった。リアルなモデルガン。それらはプラスティック製が主流となる。モデルガン以前にプラスティックの弾が出るプラスティックのピストルが流行ったことがあったが、プラモデルみたいなモデルガンは、それらの存在を思い起こさせた。ただプラモデルガンには魅力的な特徴がひとつ付加された。それがブローバック機能だ。カートリッジに仕組まれた火薬が激発されると、その圧力でスライドが作動し、自動的に次のカートリッジが薬室に装填される。それは本物のオートマティックピストルにだけ許されたアクションだった。モデルガンマニア待望のブローバックタイプは、プラモデルガンの段階で完成されたのである。けれども、悲しいかな。作動がどれほどリアルであっても、その重量感や材質は本物のイメージとはかけ離れていた。ボクの見ている間に、モデルガンショップを訪れるマニアは激減していく。そういうモデルガン事情の中でボクは失明していった。
 数年後、目の見えなくなったボクの手に重量感あるモデルガンが握らされた。コルト45・ガバメントモデルだ。実物の射撃体験を持つボクは、そのレプリカを作動させようとした。けれども、スライドが動かない。マガジンストップも作動しない。なんだ。ただの塊じゃないか。そうボクが考えたとき、弟がそれをボクの手から取り上げた。
 鋭い発射音と着弾音。そのコルト45の正体は強力なエアガンだった。ダンボールの標的は打ち抜かれ、穴だらけになっている。もしもガラス窓に当れば確実に割れるという。目玉に当れば失明もするという。要するにガス圧によりプラスティック弾を発射するエアピストルは殺傷能力を有する危険な存在だった。決して教育委員会が勧めるような優良玩具ではなかったのだ。
 その危険極まるエアガンを、さらに強力な武器に改造する動きが現れた。空気圧、もしくはガス圧を高め、銃身を強化し、プラスティック弾を金属弾に巷間して殺傷能力を増強する。もちろん本物の銃器にその破壊力ははるかに及ばないとしても、一般のエアライフルに匹敵する銃器ではないかと、ボクは理解する。空気を使用するエアライフルも、炭酸ガスを使用するガス銃も、街の銃砲店で制限的に販売される法律規制対象物である。けれども、それらのカテゴリーへ簡単に改造できる玩具が、規制も受けずに売買されているとは、日本も欧米並みの銃社会になってしまったような錯覚を覚えてしまうのだ。
 モデルガンは変質した。そしてモデルガンマニアも変質した。凶暴な玩具で生き物を狙撃する連中が現れたのだ。飼い犬が失明させられる。ホームレスが襲われる。車椅子の人が標的にさせられる。単発的ではあったが、怒りを誘う不愉快で不幸な事件が伝えられた。
 けれど、現在世間を騒がせているエアガン射撃連続発生は、それら凶悪な悪戯の範疇をはるかに超えた重大犯罪だ。凶悪な闇の欲望による反社会的な挑戦だ。威嚇だ。
 高速道路で走行中に狙撃された車は、ガラスの破損により視界を奪われる可能性がある。ひとつ間違えれば死亡事故につながる。つまり犯人は殺人罪、もしくは殺人未遂罪を犯すことになる。けれども、もしも犯人がその可能性を自覚して実行しているとすれば、事態は絶望的だ。それなのに同類の事件が同時多発的に発生していく。メディアでその危険性が大きく叫ばれているにも関わらず、事件はなくならない。そしてエアガンショップの摘発。これらの出来事にはいかなる関係があるのだろう。ボクは元モデルガンマニアとして考えた。
 そういうボクもエアガンを所有している。欧米での滞在中に体験した拳銃の実弾射撃では22口径から45口径まで、百発百中。ライフル射撃では現役の兵隊と腕比べをしても負けはしない。エアライフルではアジアオリンピック出場を勧められたくらいだから、盲目になったって、数メートル先の標的に命中させるくらいは朝飯前。そう思って所持しているのだが、実際に発射したのはほんの数回だけ。いくら腕に覚えがあるからといって、生活エリアには盲導犬がいたし、猫もいるし、妻もいる。命中したら大変だ。考えただけで引き金を引くことはできない。ボクにとってエアガンはモデルガンとはまるで別の存在だった。
 空気、もしくはガス圧でプラスティック弾を発射できるエアガンは火薬を使用するか、もしくは金属弾を発射する銃器のカテゴリーには分類されないらしい。つまり、法律的にその規制が難しいと聞く。明らかに危険なエアガンが、巷間で売買されているにはそれなりの理由があったのだ。けれども、改造部品を堂々と宣伝販売しているエアガンショップの経営者たちの神経を理解するのは困難だ。いかに法的規制が難しいからとて、実際の犯罪が発生すれば、過去のモデルガン狩のように、いくらでも法律改正や規制は可能なはずだからだ。
 過去のエアガン販売数は数百万を超えるという。意外なほどの数である。日本中が暴力団に所属したような気配はないので頭をかしげてしまうが、不可思議な現象であることに間違いはない。手元に資料があるわけではないので、ボクなりの勝手な妄想で分析してみよう。まずは昔からのガンマニアの存在。要するにボクみたいなオッチョコチョイが飛びつくわけだ。それからサバイバルゲームの流行。これは大人の戦争ごっこである。けれど、これらを実用的目的で購入する向きもある。ナイフによる殺傷事件が増大するように、エアガンを護身用に持ち歩く連中が現れた。若い女性がハンドバックに忍ばせているという。車のダッシュボードに潜ませているドライバーが存在すると聞く。
 護身用の目的にかなう強力な破壊力。それがエアガン人気の秘密であった。もしもマニアがこの特徴を高く評価し、その魅力にいつまでも溺れていたいのなら自己規制するはずなのだ。エアガンの凶暴性からくる凶悪犯罪の発生を阻止する努力を惜しまないはずなのだ。けれども事件の波紋は増大する一方である。護身用のエアガンを無鉄砲に発射して、誰が得をするというのか。玩具の誘惑に惑わされ、自分で自分の 首を絞めたがっている。ボクにはそうとしか思えないのだ。
 と、長々とここまで書いて、ボクは微妙な違和感を覚えた。果たしてこの分析に意味があるのだろうか。これでいいのだろうか。もしやして、エム ナマエというひとりのガンマニアが古き良き時代の思い出話を披露したかっただけじゃないのか。ボクは頭を抱えて最近の出来事を振り返った。このマニア好みの懐古より、エアガン連続事件を説明するもっと単純明快な事実があったはずだ。
 そうか。この間の選挙結果だ。予測していたとはいえ、想定外に政界のアンバランスを生じさせた、あの選挙結果だ。エアガン発砲連続事件と選挙結果を結ぶ共通点。ああ、そうか。自らの未来と社会の未来が見えない個人。自らの行動と選択が未来を左右することに思い当たらない想像力の欠乏。考えない頭脳による決断。何をどうすれば、何がどうなるか。その考える手続きを省いて、強烈な誘惑や巧みな煽動に触発されてのアクション。無鉄砲な発砲と雰囲気による投票。それらはどこか似ている気がする。たとえボクの考えに勘違いがあったとしても、これだけは主張してみたい。考えられない人たちが見えない速度で増殖している。メガロポリスのBGMから不協和音が聞こえてくる。大人が大人でなくなった現在、考えることを誰が子どもたちに教えていくのだろう。


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