「北海道からの手紙2」
◆ ボクらしくもなくずっと静かにしておりましたが、大丈夫。とても元気です。
1983年に糖尿病であることが判明して以来、ボクにとっての入院は何かを失うことを意味していました。けれどもそれから22年経過して、ボクは生まれて初めての失うことから救われるという入院生活を経験しております。
「手術は可能です。10年前の元気な足になりますよ」
今も笹嶋唯博教授のあのときのお言葉が頭の中でリフレインしています。ずっと失い続けてきたボクにとって、これが「神の声」に聞こえたとしても不思議なことではありません。
それからボクたち、エム ナマエとコボちゃんが北海道に飛んできたことは前回の手紙にも書きました。そうそう。8月1日の手術のご報告もまだしておりませんでした。どうぞ、この長期のご無沙汰をお許しください。
では改めてご報告いたします。二度目の手術、左足のオペも無事に終わり、結果は大成功でした。麻酔から目覚めて気がついたら、それまでずっと冷たくて鈍感だった左足に熱い血潮が流れているではありませんか。指先にも失われていた感覚が戻っていて驚きました。血管が脈打ち、足のそれぞれの指先が温かい。いや、熱い。足指を曲げると力強さも伝わってきます。それだけで誰にいわれなくてもわかりました。手術は成功したのです。
あれから毎朝、目覚める度にボクは両足の先に触れてみます。暖かい。そして生き生きと脈打つ血管。身体の半分、下肢のすみずみまで血液が循環する幸せ。健康な人にとってはなんてことない当たり前のことでしょう。けれど、この当たり前のことが「いちばんの幸せ」なのです。
病を得て分かること。それは、当たり前の幸せが最高だということ。当たり前に血液が循環しないから、当たり前の血液ではないからボクはこれまで視力を失い、腎臓機能を失い、肉体のシナジー効果を失い、そして足を失う危機に陥りました。
けれども、ここ旭川医科大学附属病院の心臓血管外科で、下肢の血行再建術を受けることによって、ボクの両足は切断から救われたのでした。
心臓血管外科の手術は、AとBとCの三つのランクに分かれるそうです。そしてボクの受けた手術はウルトラCの難易度だそうです。膝から下の血行再建術がレベルC。そして足首から先の血行再建はウルトラCに匹敵するとか。この大掛かりで難易度の高い手術は旭川医科大学附属病院の笹嶋教授のチームが日本では唯一可能にしています。ボクの入院中も鹿児島大学病院から派遣された先生が熱心に現場で修行をされていました。日本各地から患者さんたちがここに集まってくる現実の中で、この技術を学ぶ先生方が少しでも増加し、この技術が全国に広がり、ボクのように下肢切断から救われる患者さんたちが増えていくことを心より祈ります。
◆ ボクの糖尿病はうまくいっているとばかり思っていました。
旭川医科大学附属病院の血管外科の先生方は、ボクの術後の経過のよさを評価してくださいます。理由は簡単です。それはボクの血糖コントロールがよいからなのです。
人工透析導入以来、いや腎臓機能を失って以来、ボクの血糖コントロールは劇的に改善されました。何もしなくてもボクの血糖代謝は健康な状態に戻ったように見えました。でも、それは腎臓機能が失われた結果として無尿となり、体内のインスリンで血糖代謝をまかなえるようになっただけのことなのです。
この血糖値は見かけだけのことで本当の健康でないことは明白です。たとえデータは正常でも、糖尿病は生涯治らない病なのでした。人工透析で命をもらうようになってから、もうすぐ20年。ボクはそれまで以上の糖尿病による合併症はあり得ないと考えていました。その確信は自分自身の血糖値のコントロールの良さからきていました。けれども、よく振り返ってみますと、ボクは小学3年生の頃から糖尿病の自覚症状がありました。もちろん今から振り返ると、との注釈がつきますが。そしてそれが事実だとすると、ボクはなんと50年も糖尿病患者をやっていたことになるのです。キャリア50年の糖尿病と20年間の人工透析。これで動脈硬化症にならないはずがありません。
そしてやっぱり油断大敵。歩くと足の筋肉が痛み、その原因が閉塞性動脈硬化症でした。このままでは足が危険な状況に陥る。早く専門医の扉を叩かなければ。そう思いながらグズグズしているうちに足指が壊疽となり、ここ旭川医科大学附属病院に飛んできた事情は前回の手紙にも書いた通りです。
◆ 二度目の手術で起きた奇跡とは。
壊疽となったボクの右足第二指と第三指の先端は、7月15日の手術で切除され、その部分は縫合により閉ざされていました。本来は根元から切除するのが万全なのですが、笹嶋教授は二本の指の関節から下を救ってくださったのです。けれども経過が悪ければ根元からの切除もやむを得ない、とのことでした。
ところが術後、指の先端部は色が悪く、二度目の手術で根元からの切除を考えた方がいいだろう、と先生方に勧められる状態になってきました。二度目の手術までの猶予は2週間しかありません。おまけに笹嶋教授は米国エール大学に出張中で、直接診てもらうわけにもいきません。骨が感染したり炎症になったりすれば、全身が危険な状態に陥ることもありますから、ボクは二本の指をあきらめることにしました。
そう覚悟していた頃です。第二指と第三指の根元に触れていたら、先端部とは違って、その部位がいきいきと生きているような気がしたのです。
「もしかしたら、この二本の指は根元からの切除を免れるかもしれない」
ボクは指の命を感じ、指が残されることを期待しました。同じ頃、久しぶりにボクの足指をご覧になった主治医の先生も同じことを考えてくださりました。
「教授によく診ていただき、できればこの指は救いましょう」
笹嶋教授は二度目の手術で、縫合されていた指先の切断部を解放し、自然に肉芽が増殖するようにしてくださいました。するとどうでしょう。手術からしばらくして、切断部から桃色の健康な肉芽が生じ、それが次第に伸びていくではありませんか。
毎日の消毒や処置の度に先生方もコボちゃんも、その変化に驚きます。解放部は周囲から皮膚に囲まれ、その形があたかも失った爪のように見える、と不思議がったり面白がったりしています。
先週から指先の解放部の消毒も必要がなくなり、健康な皮膚と同じように乾いてきました。そろそろ保護のガーゼも必要がなくなるのではないか、と素人ながらにボクは期待しています。おそるおそる足指全体に触れてみると、痛みもなくなり、失われていた指先の感覚も次第に復活しつつあります。つまり、一度死んだ指先が血液の流れにより、生き返ったのです。
◆ 志と勇気とプライドが支える医療。
入院してこれまで、笹嶋教授やそのチームの先生方から貴重な教えを沢山いただきました。国立医科学大学附属病院で勤務する先生方の激務も具体的に知ることができました。我々一般人の印象とは大きな違いがあり、薄給と激務と危険。この危険とは血液感染などが主流ですが。つまり、食えない、きつい、危険との3Kが医師の先生方が直面している現実だったのです。
けれども、これは笹嶋教授の方針に違いないのですが、この外科病棟で勤務する先生方や看護士やスタッフの皆様の暖かさや情熱には格別のものがありました。オペをされる笹嶋教授や先生方。ICUや病室でケアをしてくださる看護士や看護助手、人工透析や手術のサポートをする臨床工学士、薬剤師、クラークの皆様方。そうそう、手術には麻酔医の先生の存在も不可欠です。その全員がチームを組んで、この難しい手術を可能にし、患者さんを支えているのです。自らの足を救いたい。そう願う患者さんたちが全国からはせ参じても、誰も失望することはないだろうとボクは推察いたします。だからご自分の大切な足を切断される前に勇気を出して笹嶋教授の診察を受けることをお勧めいたします。そうしてから、安心して治療を受けてください。おそらく、これからも糖尿病の患者さんは増加していくことでしょう。コントロールのうまくいく人もいれば、どうしても失敗してしまう患者さんもいるに違いありません。志と勇気ある医療がそれら患者さんたちを糖尿病の合併症から救ってくれることを心より望みます。
◆ ちょっと自己弁護です。
できれば入院生活の間にもっとホームページ原稿を書くつもりでおりました。ところが意外や入院生活は多忙だったのです。朝の7時から消灯の9時までお医者様や看護士の皆様方が入れ替わり立ち代りでいらっしゃいます。医学生や看護学生も実習にきますし、助手さん、クラークさん、掃除をしてくださる人も毎日のように入室されます。週に一度は薬剤師さんと薬の打ち合わせもありますし、いくら個室での入院とはいえ、人の出入りがありますから集中力の持続が容易ではありません。それにベッドの上という環境でキーボードを叩き続けるのも楽ではありませんでした。おまけに両足の根元から足先までの手術でしたから、座ってキーボードを操作しているだけで脚のつけ根や関節部分に痛みが走りますし、足全体がむくみます。というわけで、執筆は思ったようにははかどりませんでした。また、執筆以上に今の自分に大切なのは治療だと考えました。大きな手術を受けたボクの肉体は、当然のように休養と睡眠を要求してきますから、その人体の不思議から響いてくる内なる声にボクは従わざるをえませんでした。つまり無理ができなかったのです。
やれると思っていた仕事も進まず、焦りました。けれども仕方ありません。足を失わずにいられるだけで幸せというものでした。いつもだったら何よりも仕事優先の自分なのですが、ここは我侭を許していただき、しっかりと治療に専念させていただきました。各方面の皆様方にご迷惑をおかけしていること、心よりお詫び申し上げます。
打ち明けますと、入院中にホームページへの新しい連載『エム ナマエのおもしろ入院生活』とか『エムナマエの病院物語』とか、今回の入院体験を戯画的に描いた作品を執筆するつもりでおりました。ですけれども、これも我が家の普段の生活に戻ってから始めることになりそうです。もちろん毎日必ず日記をつけていて、その記録がありますから、執筆の材料はいくらでもありますので、時間が経過してもネタに不自由することはないでしょう。どうぞ期待していてください。
本当はもうひとつ執筆の進まない理由がありました。それは長年気になっていた作品の読書です。これまでなかなかチャンスがなくて読めませんでした。この入院は読書のいい機会となりました。以前から読むことを勧めていたコボちゃんが情熱をこめて朗読を始めます。登場人物になりきってセリフを語りますから、臨場感もたっぷり。どうしても物語の世界にのめりこんでしまいます。そしてまた、この作品が何巻も続いていて、毎日読んでもなかなか終わりません。朗読する側も聴く側も夢中になっていると、すぐに時間が経過して、またたく間に1日が過ぎていきます。なにしろ病院の消灯は午後9時。つまり1日が短いのです。けれども、この読書は大変役立ちました。いつか連載するだろうエム
ナマエの入院物語は、おそらくこの作品のパロディーとなることでしょう。
◆ 9月3日に退院いたします。
というわけで、ご報告です。退院間近。既に病院や街を歩いています。まだ長い距離は無理かもしれませんが、一生懸命徒歩の訓練に励んでいます。
先週末は親しくしていただいているカメラマンの青木岳志さん一家が一泊二日で旭川を訪れてくださり、そのすべての時間をエムナマエ夫婦と共に過ごしてくださいました。一日目は旭山動物園。噂のオランウータン家族や白熊さん、ペンギンさんの水中飛行やアザラシさんの水中遊戯を、見ることでなく観衆の反応で楽しませてもらいました。さすがは日本一の来客数を誇る動物園。その証拠にトイレは簡易トイレばかり。つまり急速な来客の増加に対応が間に合わないのでしょう。そして車椅子での移動に恐怖を感じるほどの坂道の連続。19歳のパワフルエンジェル、ジュンちゃんがボクの安全を全力で確保してくれたのです。夜は一ヵ月半ぶりのグルメ。駅前のあちらこちらを歩きました。おいしい食べ物のためだったら、足の痛みもむくみもなんのその。必死になって歩きます。
そうそう、青木ファミリーのジュンちゃんチャコちゃん姉妹は、ステージでボクと一緒に歌ってくれるコーラスグループ『エンジェルピッグス』です。翌日は富良野までのドライブ。ナビゲーターはチャコちゃん。たとえカーナビが「右」といっても、チャコちゃんが「左」というと、本当に目的地が左にあったりするのです。まるで生きるカーナビ。ボクは感動してしまいました。昔から方向音痴とは真逆の存在がいるものですが、まさにチャコちゃんがそうなのでした。我々の車は正確にラベンダーで有名な富田ファームに到着。香水の工房を見学したりしました。二日間の外出で車椅子から離れることも多く、おかげさまで歩くことに急速に慣れました。
外出以前から病棟の廊下や階段で徒歩の訓練はしていました。けれど実際の道路を長距離歩くのはまた別のことです。実際に体験してみないと、本当に外を歩けるかどうかは分かりません。けれども試した結果、無理さえしなければ自分は歩ける。そういう結論に至ったのです。
翌日の月曜日、ボクは教授や先生方に相談しました。そして退院許可をいただいたのです。難しい傷もふさがろうとしています。あとは我が家でも近所の医院でも治療が可能でしょう。そういう経過ですので、退院は9月3日の土曜日ということになりました。今度の週末は我が家で過ごせます。7月12日以来離れていたネコドモにも再会できます。キロンがどんな態度で消えていたボクらを迎えるか、楽しみでなりません。
◆ 快適な入院生活でした。
北海道の旭川の土地で、いろいろな出会いや交流がありました。外科病棟のスタッフの皆様との毎日の触れ合い。友人の訪問。新しい人間関係…。
7年間も憧れ続けてきた釧路の歌人、ふじたゆきえさんとの感動的な初対面。FMリベールの柳沢社長と文化放送「やるまん」の小俣雅子さんとの強い絆による出会い。咄家、柳家一琴師匠の見舞い。友人、川田龍平さんの来訪。思いがけない人との触れ合いがあり、退屈しない毎日でした。
嬉しい荷物も届きました。20世紀最高のラジオ、ボーズのウェイブの音を毎日楽しんでいる部屋に、そのボーズ・ジャパンの佐倉社長からお花をいただきました。病院のスタッフは有名なウェイブの隣に、その佐倉社長からの花を発見して驚いていました。幼馴染の山下君や「やるまん」の小俣雅子さん、その他友人知人からのお花で部屋はいつも美しい香りに満ちていて、病室を訪れるスタッフの皆様は喜んでおられました。香りといえばもうひとつ。我が家で愛好している焙煎工房の手焼きコーヒー豆を、オーナーの高山さんが送ってくださいました。そのプレゼントの嬉しかったことったら。焙煎したばかりの芳香。というわけで、ボクとコボちゃんの病室はコーヒーショップの香りになってしまいました。
入院生活での出来事は、残念ながらここにすべてをお伝えできません。けれども、感動的で衝撃的で愉快で楽しい出来事に満ちた月日でした。いずれ、これらひとつひとつの出来事もホームページに詳細にご報告するつもりです。どうぞご期待ください。
そろそろ、このコンピュータも接続しているラインを切り離し、荷造りせねばなりません。結局は電話線に接続できず、インターネットできなかったコンピュータではありますが、毎日の記録だけには役立ちました。たった二度しかホームページに原稿を送れませんでしたが、この機械も本来の場所に戻り、その力を再び発揮することになるでしょう。
では、まだまだ書き足りませんが、ここいらあたりで「北海道からの手紙」の封を閉じることにいたします。長期間にわたって皆様方にご迷惑やご心配をおかけしたこと、心よりお詫び申し上げます。そして、両足の再生に成功したエム
ナマエが、新しいパワーで新しい時空間をクリエートし、生きていく絵柄を、どうぞお楽しみください。今年の秋からはまったく新しいジャンルの大規模な仕事にも参加していきます。何が始まるか、どうぞご期待ください。これからのエム
ナマエも、よろしくお願いいたします。では、ありがとうございました。
*エム ナマエ 2005/08/31
▼北の夢より。 エム ナマエ
◆ またまた一ヶ月のご無沙汰でした。
モタモタしていたら、またまた一ヶ月のご無沙汰となってしまいました。毎日が感動だったり、猫の目のように変化する気分だったのに、ホームページへ原稿を寄せることができず、苛立つ日々を過ごしていました。
では白状いたします。実は忙しいのです。わあい、こういうこと、一度はのたまってみたかった。うわあい。いや、忙しくなったと表現してよろしいのか。エムナマエには似合わないような高度なリクエストが次々に舞い込んでくる印象。冷静に整理して考えれみると、それほどでもないのですが、二ヶ月も現場を離れていた身の上にとっては厳しくも多忙な生活が戻ってきたようで、ただ慌てているだけなのだと思います。とにかく、ホームページへの愛を忘れたわけではありませんので、お許しください。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
それでは早速、北海道からの手紙、本文に突入いたします。
◆ 北の王国。
王国といっても、王様なんてどこにもいません。けれども、あの広くて雄大な風景の中に堂々たる王様が立っている絵を想像するのはごく自然なことだと思います。そうですね。ボクが王国という理由のひとつは、あの「動物王国」のイメージがあるからかもしれません。
まだ目が見えている頃、ボクはムツゴロウの動物王国へ幾度も入国を許されたことがありました。一度は畑正憲さんと絵物語の打ち合わせのため。二度目は動物王国の立体地図を制作するため。畑正憲さんとは仕事のため、東京でもお会いしたことがあります。けれど、やはりボクは動物王国でのムツゴロウ先生や人々や動物のことが忘れられません。その景色、その人たち、その匂い、その空。当時、ボクはムツゴロウとその王国の熱狂的なファンでしたから、仕事のためであっても訪れるのが楽しくてたまりませんでした。北海道とくると、オートマティックに王国と反応してしまうのは、そんな体験からかもしれません。
けれども、動物王国はボクの知らない間に様変わりをしたみたいです。ボクの憧れていた王国は消えてしまったのでしょうか。いやあ、そんなことはありません。依然、王国は存在しています。流氷のような天然現象であれ、小さな生き物であれ、巨大なヒグマであれ、美しいダイアモンドダストであれ、そこで暮らす人間模様であれ、すべて北国の王様にふさわしい存在であると思えるのです。
考えてみますと、どれだけボクは北海道に魅せられたことでしょう。1966年の慶應義塾志木高校の修学旅行で初めて北海道を訪れて以来、ボクは北海道に夢中になってしまいました。17歳のボクにとって北海道一周の旅がどれだけ魅惑的で刺激的だったことか。世界の美しさ、すべてを吸収してしまう青春の豊かな感性にとって、北海道という土地はまさに見知らぬ外国でもありました。いや、北海道こそボクの最初の外国だったのです。
大英帝国のハイウェイをいくとき、北海道に似ていると思いました。ケニアの高原をドライブしているとき、ここは北海道ではないかと錯覚しました。広がる田園。直線に走る白い道路。見渡す限りの地平線。広大な風景に包まれるとき、ボクは瞬間に17歳の少年に戻ってしまいます。夢見る少年が見た北海道の風景は、見知らぬ外国への誘いでもあったのです。
外国旅行から戻って、ボクはますます北海道に夢中になっていきます。動物王国を訪問したのもそんな頃でした。蒸気機関車を追いかけて真冬も真夏も北海道の東西南北を走り回ったこともありました。おいしい食べ物に魅せられて、ただそれだけの理由で北の果てまで飛んだこともありました。そしていつも北の国の友人がボクを暖かく迎え、助けてくれました。
失明してからは全盲のイラストレーターとして札幌で展覧会を開いてもらったこともありました。その北海道は旭川医科大学付属病院の笹嶋唯博教授とその医療チームのおかげで、ボクは絶体絶命の危機から救われたのです。
◆ 独立国、北海道。
53日間も、北海道は旭川で暮らして、ボクらはすっかり洗脳されてしまいました。もう巨人軍のラインナップも知りません。ファーストを誰が守って、誰が四番バッターなのかも知りません。その代わり、日本ハムで誰が活躍しているかについては詳しくなりました。第一、巨人軍なんてどうでもよくなりました。ひたすら日本ハムの行く末が気になるのです。今年はプレイオフに参加できるのかどうか。おお、神に祈りたくなるくらいです。
東京のローカル情報にも乗り遅れてしまいました。入院してからはNHK以外、東京のどんな放送局の電波もキャッチできません。旭川が盆地だという理由もありますが、とにかく北海道は旭川の電波しかキャッチできず、中身も北海道の話題オンリーです。季節の話題も一足先に秋の模様。蒸し暑いとか、不快指数とか、不愉快な酷暑の夏からは縁遠い暮らしをさせていただいたのです。
けれども、これはボクの錯覚。東京に帰ってみると、北海道も今年は厳しい暑さだったとか。なんだ。涼しかったのは病院のエアコンのおかげだったのか。これは失敗、勘違い。要するに地球温暖化のせいで、どこもかしこも暑かったわけですね。まあ、そんなことも気にせずに暮らすことができたのも北海道効果といえるのかもしれません。
さて、話題を戻します。旭川の暮らしで、ボクの耳に馴染んだ土地の名前は釧路、札幌、小樽、稚内、美幌、函館、苫小牧。応援する高校は駒大苫小牧高校。決勝戦では手に汗にぎって応援しました。おかげで57年ぶりの夏の大会2年連続優勝。病院の食堂で、ボクは患者さんたちと歓声をあげ、拍手喝采をしたのでした。その嬉しいニュースの直後、ニュースの第一報は優勝チームの野球部長教師の不始末。そうなると、もう話題はそれっきり。けれども、これは北海道だけではありませんでしたね。その頃はビッグニュースがなかったんでしょう。そうそう、はるかな東京の地震のニュースに驚いたり、宮城沖の地震に旭川が揺れたり。おお、日本列島はつながっているなんて感動をしてみたり、視線も立場も一味違う夏を過ごさせてもらいました。
ひたすらボクらは中途半端な北海道人になって、自らのアイデンティティーを失いかけて、ええい、ボクはもう日本人じゃなくていい加減な北海道人に変身しちゃえ。旭山動物園に通いながら、ここに暮らすのも悪くないなんて浮気心に走ったり。とにかく、人が大きくて国土の広い北海道に包まれて暮らすのも楽しい入院生活だったのです。
◆ ビッグサプライズ。
旭川医科大学付属病院の笹嶋唯博教授とその医療チームによる、7月15日と8月1日の二度の手術で、ボクの両足は暖かくピンク色に変身しました。閉塞性動脈硬化症で絶命寸前だった両足が生き返ったのです。この技術を血行再建といいます。前にも紹介した通り、足首から先の細かい血管の再建手術を可能にしているのは笹嶋教授のチームだけだと聞き、エム
ナマエはこの夏を北海道の人として暮らしたわけなのです
あれから2ヶ月。おかげですっかり元気に歩けるようになりました。ここ数年間、筋肉の酸素欠乏で死ぬほどの苦痛を味わっていらことが嘘のようです。今では歩く速度も家内のコボちゃんをオイテケボリにするくらい。笹嶋教授のおっしゃった「十年前の足」に復活したのです。
けれども、そういった想定内の驚きとは別に、ものすごいサプライズがありました。
「あれ、足が黒いよ。お風呂で洗ってないでしょ」
コボちゃんがボクの足に顔を近づけます。
「ちゃんと洗ってるよ」
「でも、黒い」
「おかしいなあ」
ボクは自分の足をさすってみました。すると、あらあら、本当にザラザラしてるではありませんか。うわあ、垢で汚れてる。きったねえ!。そう思った瞬間でした。コボちゃんが大声をあげたのです。
「きゃーっ。毛がはえてる。スネゲがはえてる」
嘘!。ボクの足は女性のようにつるつると白く細く美しく、女性たちの羨望の的だったのです。いつだってバニーガールの格好でコスプレに参加できるおみ足だったのです。その自慢の足にスネゲだって。冗談ではありませんわ。やめてちょーだい!。
「血行がよくなったせいよ。ほら、血管の周囲に毛根が生じている。そこから毛がはえてるの。驚きだわ」
かくして血行再建手術の想定外の裏技をご報告する次第であります。 *エム ナマエ 2005/10/03
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