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反面教師

 昨年、千葉県T市の小学生兄弟からもらった手紙に、魂の輝きを感じた。ぼくは児童図書を書いているから、子供たちから手紙をもらうことが多い。それらを読むことは楽しい。返事も書く。だが最近、少し気になることがある。それは要領のいい文面が目立つようになってきたことである。どうやら、最近の子供たちは大人の泣き所を心得ているらしい。だが、ぼくは読書感想文で合格点をもらうような手紙を読まされても、嬉しくもおかしくもない。お母さんや先生のニコニコ顔が浮かぶようなよい子の文章よりも、天然のその子らしさを読みたいのだ。

 T市兄弟からの手紙にはエスプリがあった。返事を書きたい。だが、残念なことに住所がない。すると家内が提案する。T市内の小学校に連絡し、その子らの存在を確認しよう。勿論、おかしなご時勢だから疑われるに違いない。そこで、礼を尽くし、丁寧に事情を説明してから本題に入り、決してその子らの住所は聞かず、ただ小学校の住所だけを尋ねるという主旨だった。家内は早速T市役所に電話し、市内の小学校をリストアップした。滑り出しは順調に思えた。だが、しかし…。

 仕事場の電話が鳴った。それから先の不愉快は表現に苦慮する。電話の内容は我が連れ合いの非礼を詫びろ、というものであった。だが、相手は、自分が誰だか名乗らない。つまり、電話の基本的な礼儀を知らないのだ。そればかりではない。同じような声の人物が、断りもなく入れ替わりで話をするから、ぼくには相手が把握できない。その上の高飛車な語り口である。論理的な会話の成立しないまま聞いていると、どうやら相手はT市内の小学校関係者であると想像できた。

 家内によると、彼等はT市J小学校の教諭と教頭であるという。礼を尽くして説明しようとする家内を一方的に非難し、ぼくの仕事場の電話番号を聞き出したのだ。
 翌日、同一人物から電話があった。こちらの身分を調べまくってからの電話である。だが、依然として相手は名前も身分も明らかにしない。小学校の教頭ともなると、わざわざ自分から名乗る必要がないらしい。会話はほぼ前日同様で、長々と先方の避難を聞かされた。さて、いざこちらが話をしようとすると、相手はこういったのである。
「早くしろ。こっちは時間がないんだ」 
 ぼくは愕然とした。相手はバルタン星人か何かで、お互い共通の社会通念が存在しないのだ。会話が成立しないのも当たり前である。
 子供が親を選べないのと同様、生徒も教師を選べない。ときとして、そこに悲劇が生まれる。子供の未来が奪われるのだ。

 家庭にせよ学校にせよ、個人が個人を養い教育する。たとえ親子であっても個性の衝突があるのだから、まるで他人の教師と生徒の間では多くの問題が生じて当然である。もしも前記のような教師に出会ったら、生徒は自らの意見を聞いてもらえないばかりか、一方的な基準で生徒個人の可能性を判断されてしまう。しかし、子供たちも本能的な賢さでそれに対応していくだろう。つまり教師の調教である。よい子の下面で踊れば、大人は単純に騙される。教師が本物の大人であれば、子供たちも本物の子供でいられるのだが。

 教師が大人になり、本物の先生となるのに、どれほどの時間がかかるのだろう。いや、それ以前に反面教師によって小さな大人にされてしまう生徒がどれほどいるだろうか。

※ 2001年 社会新報掲載
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