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特権階級

 明治以来、無数の私学が名乗りをあげた。そして平成の今、どれだけの私学が名を残したことだろうか。両者の運命を隔てているのは経営努力だ。学校における営業成績とは優秀なる卒業生の生産と伝統の維持、そして社会貢献への実績であろう。この競争に敗北した私学が消滅していくのだ。いかに学校が聖域であろうと、私学は競争原理の中で自らの生き残りをプロデュースし、未来に挑戦していく。優秀なる私学とはこの実践者なのだ。

 ぼくが高校受験生の頃、日比谷高校を筆頭として都立高校は輝ける目標であった。だが、現在はどうだ。それら高校群は過去の光を失ってしまったようだ。高校ばかりではない。あらゆる公立教育機関が失速しつつある。

 原因は学校の無個性化と学区による線引きではなかろうか。これらにより、地方公務員である教師たちは、結果として競争原理という嵐のない安全地帯で安息することになった。たとえ個性や魅力がなかろうと、指定された学校に生徒は集まってくる。いわゆる営業努力をしなくとも、教師は行政と慣例により身分を保証され、公立学校は税金による経営が成立する。

 一部小学校の運動会では、ヨーイドンで一緒にスタートし、ゴールインもみんな一緒に、というレースが展開されているらしい。トップもいなければビリもいない。運動会から勝負が消えれば、「アカカテ、シロカテ」の応援も消えるのだろうか。だが、世界的運動会のオリンピックでは、世界中の競技者が唯一の金メダルを目指して人生を賭けている。敗北の口惜しさがなければ「よくても悪くても金メダル」というチャレンジ精神も生まれない。勝利の日の丸がなければ、「ニッポン、チャチャチャ」の合唱も沸きはしない。

 福沢諭吉の言葉、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」は一般に平等宣言と受け取られているようだ。果たして本当だろうか。確かに人間は等しく裸で生まれてくる。だが、生まれた瞬間から個人の能力も肉体的条件も平等ではない。そして個人を受け入れる社会も平等ではない。諭吉の言葉を平等宣言とするならば、すべての個人は平等にチャレンジする権利を保証されなければならない。ただし、チャンスの前に、個人は過去の努力を試される。たとえチャンスは平等に開かれても、チャレンジのプロセスは競争の連続なのだ。「社会は人の上に人を作り、人の下に人を作る」すべての結果は努力の結果であり、その意味でだけ人間は平等なのだ。

 人類は平等な理想社会を夢想して歴史を紡いできた。革命も社会主義国の出現もその結果である。しかし、どのように理想的なシステムを構築しても、それを運営するのは個人である。一部の階級に利益が集中したり、社会を支える市民に悪平等が作用して社会全体に腐食が生じれば、システムは崩壊する。社会主義国の工業生産物の品質が低下するのは、工場労働者がすべて公務員だからではないだろうか。努力してもしなくても結果は同じ。社会を構成する精神が脆弱であれば、個人は努力から逃避する。そんな精神的土壌の社会は自由競争世界では沈没せざるを得ない。

 治安と教育は日本の誇りであった。しかし現在、それらの崩壊が危具されている。特権階級を認める限り、この両者の名誉回復は不可能だ。唯一の解決策は個人の欲望からの独立である。それにより民度が向上すれば、選挙結果は日本を沈没から救うであろう。

                 2001/04/01  エム ナマエ 
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