1948年、東京の、ごく一般的な家庭に生まれる。
 本名、生江雅則(なまえまさのり)。

 幼年時代から自己主張が強く、まだよく歩けない頃より口が達者だった。祖母に背負われながら、よく歩けないにもかかわらず、背中から祖母に忘れ物を指摘したり行き先を指示したりしていた。

 幼年時代よりの鮮明な記憶があり、それが母親よりも正確であることは周囲が証明している。3歳から意識的に絵をかいていた記憶がある。記憶の最初にあるのは寄席の絵。また、どの絵をどのように、どんな気持ちでかいたか、いちいち覚えていて、それが失明後の人生に役立つことになる。

 目白のキリスト教系列の幼稚園に入園する。だが、そこで、みんなと同時に同じことをさせられる毎日の連続に納得ができず、自分の意志で中退した。小学校に入学した直後から、学校内部で絵や作文の才能を高く評価されるが、小学校の、みんなと同じことをさせられる団体教育にも抵抗を感じていた。そこでおしゃべりばかりしていたら父兄参観日があり、父親から厳しく叱責され、庭で一晩を過ごせと命じられる。それ以後、仕方なく模範生徒になろうと努力する。

 新宿区、庶民文化にあふれた下町に育ち、そこの小学校、戸塚第三小学校に10歳まで在籍するが、父親の転勤で転居、転校する。10歳からの少年時代を経済と政治の中心、千代田区の皇居近くで暮らすことになる。日本最大の繁華街、銀座界隈で少年時代を送り、都会生活を満喫した。当時の遊び場は日比谷公園や有楽町そごうデパートだった。

 転校先の永田町小学校や進学した麹町中学校は国会議事堂や首相官邸を間近にした、当時の最高レベルを誇る進学校であった。そのため、一時は著しく成績が低下するが努力。中学で学力を取り戻し、エリートコースを目指したこともあったが、中学時代後半に表現者としての自我に再び目覚め、「独立自尊」を理念とする私学、慶応義塾を目指し、その付属、志木高校に入学する。

 都会に生まれ都会に育ち、都会生活を心から楽しむ少年時代であった。独立心が強く、単身で電車に乗り、東京都内、どこへでも出かけていった。どこにいっても、そこの大人たちから愛され、幸せな少年時代であった。また、鳥や動物をこよなく愛し、都会に共存する小さな自然にも親しんだ。自然科学にも興味を示し、動物園や科学博物館、プラネタリウムなどを熱心に訪れた。人生の大半を都会で過ごしたが、幼年時代から父親の郷里である裏磐梯高原や群馬県や埼玉県の山岳部に暮らす親戚の家に繰り返し長期滞在し、本物の自然に深く接する機会にも恵まれた。

 進学した慶応義塾志木高校は創立当初は先進的な農業高校を目指した独創的な教育機関で、そこでのユニークな高校生活は以後の人格形成を決定する。自由な教育と豊かな自然や人間関係に恵まれ、充実した3年間を経験した。その頃、音楽や文化としてのビートルズに出会い、特に音楽家としてだけではなく、詩人や画家としてのジョン・レノンに大きく影響される。1966年のビートルズ東京ライブの体験は永遠に忘れられないものとなった。

 音楽を愛する高校生ではあったが、片時も絵をかくことを忘れたことはなく、美術部では油絵制作に専念していた。あるとき、漫画家やなせたかし氏の著書により、イラストレーションは絵で表現するポエムであることに気づかされ、将来のイラストレーターを志すことになる。また、当時、アルバイトをしていた出版社で子どもの絵本に触れ、その表紙、杉田豊氏のイラストレーションの水準の高さに驚き、子どもが初めて出会う本としての絵本の存在価値の素晴らしさに目覚めた。

 1967年慶応義塾大学法学部に入学。大学の漫画研究会に所属し、法律と漫画を同時に学ぶ。というのは世を忍ぶ借りの姿で、本当をいうと、入学してすぐに法律には興味がなくなっていた。その頃、漫画やイラストレーションがすべてであった。また、絵本への興味が深まり、文学部図書館情報学科教授、渡辺茂男先生の児童図書の講義を選択し、そこで学ぶ。1968年には学生ロックバンドのボーカリストとしても活動する。音楽業界からの誘いもあったが、結局は絵の道を選ぶことになる。

 1968年、最初の絵本、「雪の坊や」を自費出版する。物語は都会の自然を題材にしたもので、当時から環境問題をテーマにしていた。1969年、最初の個展「空」を開く。展覧会全体のテーマはやはり環境問題だった。複数の編集者に作品のテーマと色彩の美しさを認められる。1970年、慶応義塾大学法学部在学中よりプロのイラストレーターとしてデビューすることになった。

 イラストレーターとしてデビューしてすぐに多忙となり、大学は中退する。1972年の頃より児童図書の出版社からの依頼が多くなる。1973年、童話「みつや君のマークx」のイラストレーションを担当。この作品は文章とイラストレーションが相互に作用してストーリーが展開するもの。記念すべきは、この童話が慶応義塾教授、絵本のお師匠である渡辺茂男先生によるものであったこと。1974年、最初の絵本「ざっくり、ぶうぶう、がたがた、ごろろ」のイラストレーションを担当。(この絵本は英訳され、米国でも出版された)以後、絵本作家として本格的な活動に入る。失明まで、約60冊の児童図書を手がける。いくつかの作品は高く評価され、絵本賞の最終候補に残るが、残念ながら受賞には至らなかった。

  1972年より1983年まで、毎年のように海外を旅する。1972年は単身で3か月ヨーロッパを放浪。これが人生最大の夏休みとなり、貴重な経験となった。ヨーロッパには1976年、1978年にも長期滞在。また、1977年、1980年に訪れた東アフリカ、ケニヤの自然と人々に深く魅了され、その体験はいくつかの絵本に反映された。また1980年に訪れた北京が最も興味深い都市であった。ハワイやグァムにもいったが、失明前に米国本土を訪れることはできなかった。

 1980年、ジョン・レノンの死に多大なるダメージを受ける。その直後からエム ナマエにとって彼の存在は神と同格となる。それからの夢は、ジョン・レノンの仕事の百万分の1でもいいから引継ぎたいという願望になった。それは彼の歌う「イマジン」に現れるような世界の実現への貢献である。これがエム ナマエにとって「地球教」への目覚めとなった。

 1983年、視力と体調の低下のため病院を訪れた所、糖尿病と診断される。少年時代から病んでいたらしい。直ちに入院。そこで近い将来の失明を宣告される。糖尿病の克服に全力を注いだ結果、病状は著しく改善され、その年末からイラストレーションの仕事に復帰できた。しかし、翌年1984年、再入院。視力が著しく低下していった。半年の入院生活で人生最大の苦難と絶望を味わう。

 1984年クリスマス、担当のクリスチャンである眼科医師はエム ナマエを病院内の個室に招き、「あなたは神に選ばれたのです」と伝えた。退院直後の1985年新年5日夜明け、眠れずに苦悩していたエム ナマエに朝日と共に突然神からの啓示がくだる。瞬間的にそれが創造主であることを悟る。そこで宇宙の存在すべてが神より無限の愛を注がれていることを知り、愛の存在がくれる運命なら感謝して受け入れようと決心する。そこから世界がまるで新しく見えてきた。

 1985年夏、失明後も表現者として生きる道を選択する。イラストレーターから文筆家への転身を決心。その準備を開始する。白い紙にボールペンで自分では見えない文字を書き、長編SF小説を完成させる。これで未来への手応えを獲得した。

 1986年2月、完全に失明。同時に人工透析を導入。しばらくは失意の底にあったが、すぐに失明前の結団を取り戻し、ボールペンを握り、作家デビューに全力チャレンジする。その年末、自分では読めない文字で長編SF童話を完成させる。1987年、その作品を推敲する。1988年、作品は処女長編童話として出版される。1989年、作品は児童文芸新人賞を受ける。以後、童話作家としての本格的執筆活動に入る。

 失明直後、一方的な理由でふたり目の妻から離婚を要求され、それを認める。以後、両親や友人、先輩の協力のもとに作家活動を続けていたが、1987年、現在の妻に出会い、交際を始める。1990年、周囲に祝福され、キリスト教会で結婚式をあげる。結婚の記念に失明後初めてかいた絵を版画にして友人らにプレゼントする。その作品がジャーナリズムに取り上げられ、話題となる。メディアにより、作品とエム ナマエの活動は一般に知られるようになる。しかし、もともとこれらの絵画作品はエム ナマエとの結婚を決意してくれた妻に楽しんでもらうためだけにかかれたものであった。

 1990年、展覧会の要請を受ける。そこで妻だけを楽しませる作品ではなく、普遍的価値のある作品制作を志す。全盲でも観賞可能な作品が制作できることを実現して、人間の可能性を形で示したかった。そこで役立ったのが、いちいちの絵に対する記憶であり、また自分の内部にあるカラフルなイマジネイションであった。作品制作に当たっては周囲の友人や当時のアシスタントがサポートしてくれたが、やがて妻とふたりだけで制作するようになる。しかし、妻は単なるサポーターであって表現者ではない。作品は飽く迄も作者個人の純粋創作である。

 1990年、以上のような経過で全盲のイラストレーターとして復活。秋には「障害者アートバンク大賞」を受賞。失明後、最初の個展では、ほとんどすべての作品が売れてしまった。以後、全国で展覧会を開くようになる。

 1991年、最初の画集を出版。その後、次々に画集や絵本を発表する。1992年、第一線で活躍するイラストレーターに与えられる「サンリオ美術賞」を受賞。障害者アーティストとしてではなく、普通のイラストレーターとして認められる。1995年、「日本地方新聞協会ブロンズ賞グランプリ」を受賞。これはその年最高の出版物に与えられる賞で、創作意欲はますます盛んとなる。以後も童話、エッセイ、ポエム、イラストレーション等、他方面で活躍。

 1998年、ニューヨークで個展を開催する。そのとき、サムソナイトに潜ませて持参した失明後の版画「イマジン」(イメージ・ジョン・レノン)がカーターズ社との奇跡のドラマを展開させていく。天からジョンが導いてくれたような奇跡と偶然のドラマ。そして2000年、エム ナマエの作品は子供のための総合コレクションにアレンジされ、ジョン・レノンのそれと並んで全米に展開された。発売直後の一週間で記録的な売り上げ成績をあげる。

 二千年期最後のジョンの命日、エム ナマエはジョン・レノン・ミュージアムのオフィシャルコンサートで歌うことを許される。少年時代からの夢、世界に通用する画家になりたい夢。ジョンが凶弾に倒れたときからの願い、その仕事の百万分の一でもいいから引継いでいきたい。それらの夢が二千年期最後の年に形となった。「夢は現実の卵」。エム ナマエのこの言葉は、その通りに実現したのである。

 さあ、いよいよ三千年期に突入した。これからどんな時代を築いていくのか。ひとりひとりで考え、ひとりひとりで実行し、そしてよりよき結果が導かれるよう、実践と討論を繰り返し、そして調和と融合を大切にしながら、新しい未来を模索していきたい。これから自分たちの選ぶひとつひとつの道が次の時代を開くのだから。


※ 現在、考えるところがあって特定の宗教や宗旨には属してはいない。ただ、すべての宗教を超越し、すべての宗教を融合させるような自分自身の信仰を深く抱いている。いわゆる自分教である。組織や団体によるものでなく、個人がいかに神の存在に目覚めるか。その存在に向かうか。これこそが真実の信仰の基本ではないだろうか。ジョン・レノンがいう宗教による争いのない世界は、これら真実の信仰に人々が目覚めたときに実現するのではないだろうか。宗教にこだわらず、いく所どこでも教会、神社仏閣を訪れ、あらゆる宗教の指導者とも接触するが、みんな誰でも同じことを信じている。そう実感している。一刻も早い宗教による戦争のない時代が実現することを夢見てやまない。
    
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