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【その8】   1998年 某月某日

 
初夏のある日、アタシは東海道新幹線に乗って名古屋に向かっていたの。目的地は伊勢神宮。これはエムさんが生まれて初めての伊勢参りのときのお話よ。
 名古屋で近鉄に乗り換えるの。アタシはJRより近鉄の方がずっと好き。働いている人たちも、喜んで鉄道のお仕事をしてるって感じで、とても気持ちがいいの。それに駅の階段も少ないし、エムさんにとっては歩きいいのよ。駅員さんも親切で、アタシを見かけると声をかけたりしてくれるわ。
「何かお手伝いすること、ありますか?」
ってね。アタシたちにはコボちゃんという介助者がいるから、心配なことはないんだけど、声をかけてくれるだけで安心できるのよ。

 いよいよ伊勢神宮。この神社には内宮と外宮と、ふたつのお宮があるの。で、アタシたちは最初に外宮にいったのね。
 砂利の広場をお宮の入り口に向かって歩いていたときだわ。
「これは盲導犬かね?」
 いきなり声がかかったの。警備員よ。とっても威張った感じで、アタシは気分が悪かったわ。いかにもアタシたちが正しくないことでもしてるみたいないい方だったんだもの。
「これが盲導犬かどうか、見てわかりませんか」
 エムさんの応えは乱暴ではなかったけど、でも強い口調ね。きっとエムさんも不愉快だったに違いないの。
「いや、わからないことはないけれど…」
 「見てわからない人には、いってわからせる必要があるでしょうね。それとも、あなたは目のあいている盲人なんですか」 「そ、そんな…」
「じゃあ、どうしてこれが盲導犬かどうか尋ねるのですか」
 エムさんの口調がどんどんきつくなってくわ。きっと腹の底ではお湯が沸騰してるのよ。この警備員みたいに、本当はちっとも偉くないくせに、自分の立場を利用して、弱者をつかまえては威張りたがる人種っているのよ。これまでも、エムさんとアタシは、こういうやからにずいぶん意地悪されたものよ。
「いや、盲導犬かどうか確かめたいのです」
「だったら、見ればわかるでしょう。それとも、ただの犬に盲導犬のふりをさせて、中に入る人でもいるのですか。そんなことして、何か面白いことでもあるのですか。得することでもあるのですか」
「そんなことはありませんが」
 暑い日だったの。その警備員はちょっと豚みたいにデップリとして、汗をタラタラと流していたわ。やな感じ。虎じゃなくて、伊勢神宮の威光を借りて威張った豚なんて最低よ。
「とにかく、私には義務がありますので」
「義務って、ボクのような障害者に余分な精神的圧力をかけたり、意地悪をすることですか」
「いや、そんな…」
「大体、あなたの所属は何処ですか。宮内庁なんですか」
「いや、その、伊勢神宮ですが…」
 「たとえ何処の所属であろうが、ボクが盲導犬と同行することをあなたに拒絶する権限はありませんよ。それとも裁判でもしますか。ボクの人権が憲法で保証されていることはご承知でしょうが」
 警備員が後へ引くか、謝罪でもしない限り、エムさんの演説はいつまでも続くに違いないの。そうして、弱者を弱者と思いこんで威張ってやろうと考えた自分を心の底から後悔した人たちが、これまでも沢山いたわね。小学生から勉強をやり直せ、と怒鳴られた学生アルバイトもいて、その男の子、泣きそうになっちゃったのよ。可哀相だけど、面白かった。
「ど、どうぞお通りください」
「当たり前でしょう。自分が自分の目を外して歩く人間なんて、いるはずがないんだから」

 エムさんがアタシのハーネスのハンドルに軽い合図をくれたから、アタシは歩き出したわ。砂利は初夏の太陽を浴びて熱くなっていたけど、ザッザッと歩き始めるとまだ冷たい砂利が足の裏の肉球に触れて、ちょっと涼しくなってきた。見上げると、エムさんは振り返りもせずに歩いていたわね。ま、振り返っても何も見えはしないんだけど、これがエムさんのポーズなのよ。

 鳥居をくぐるとき、エムさんはトレードマークの帽子を脱ぐの。神様に敬意を示すためなのよ。エムさんはお寺でも神社でも教会でも、いつでも必ずそうするわね。死にかけて、そして目が見えなくなっても、こうして元気でいられるのは、宇宙や地球や人間を神様が愛してくれているおかげ、と信じているからなのよ。でもさ、おかしいのはね、エムさんは無宗教なの。宗教なんて信じない。いつもそういってるわ。けれども、神様や仏様だけは信じているんですって。変なの。
 外宮の庭をニワトリが歩いていた。それに馬もいた。あれは神様のニワトリや馬らしいんだけど、エムさんは笑っていたわ。
「ボクにとっては、アリーナこそが守り神さ」  

 内宮の橋を渡るときは何事もなかったわね。理屈っぽい盲導犬使用者が現れるから注意しろって、無線連絡が入っていたかもね。でも、おかげでエムさんは気持ちよくお参りができたんですって。江戸や上方の落語が大好きなエムさんにとって、お伊勢参りは夢だったらしいのよ。きっと、エムさんとアタシは珍道中のヤジさんキタさんみたいに見えたのかもしれないわ。

この絵本の売り上げの一部は全国の七つの盲導犬教会で盲導犬育成に使用されます。



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