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◆ おはよう

 エム氏は定年退職したサラリーマン。それで、ひとりぽっち。会社をやめると、すぐに離婚を宣告した奥さんは退職金の半分を慰謝料に、どこかへいってしまいました。息子や娘は独立して、とっくに家を出ています。
「おはようございます。あら、今朝もお出かけ。やっぱり、再就職なさったんですのね。うらやましいですわ。不景気でござあましょ。タクの息子なんか、大学を出ても、まだ就職口もないんですのよ。どこか紹介してくださらないかしらん」
 小さな建売住宅の門を出ると、隣の奥さんが機関銃のように声をかけてきました。エム氏は会釈だけすると、その場を離れます。住宅街をぬけると、道路は私鉄駅へ向かう背広やツーピース、制服の洪水。エム氏も、その流れの一粒となりました。
「おはようございます。おはようございます」
 私鉄駅の自動改札機はフル回転。横では駅員がひとり、大声で片道切符の朝の挨拶を繰り返しています。階段はゼンマイ仕掛けの歯車で送られる黒い蟻の集団。長身のエム氏の白髪頭がオートメーションで運ばれていきます。ホームでは、休むことを許されない通勤電車が、ゲップをしながら人間の行列を呑みこみ、シグナルはパッパと色を交換し、すぐ先では、お尻に火のついた電車が立往生。
 終着駅のターミナル。到着のアナウンスと発車のベルが交錯する中、車掌が真っ赤な顔で笛を吹き鳴らし、電車のドアからはインクをこぼしたように人の群れが広がり、流れ、環状線の乗換え口に排水されていきます。
「おはようございます。いつものモーニングセットで、よろしゅうございますね」
 エム氏はコーヒースタンドの停まり木で息をつきます。豆の蒸気とマイルドセブンの煙が鼻先でブレンドされました。
「おはようございます。おはようございます」
 開店のデパート。左右に並んだ店員が客の行列に朝の笑顔を振りまいています。地階へ下るエスカレーターは、少し猫背のエム氏の後ろ姿を優雅に運んでいきました。
「おはようございます。いつものですね」
 無言のエム氏に果物売り場の女子店員が、ビニール袋に包まれたバナナを手渡しました。受け取ったエム氏は真っ直ぐにエレベーターホールへ向かいます。上向きの矢印ボタンを押すとドアがパッと開き、エレベーターガールがニッコリとほほ笑みました。
「おはようございます。屋上へ参りまあす」
 吹き上がる都会の喧騒。人気のない屋上庭園。子供のいない遊園地。観客のいないガラスケースのポップコーンショウ。ソフトクリームスタンドでは「準備中」のプラスティックプレートを裏返しながら、ユニフォーム姿のアルバイトが声をかけてきました。
「おはようございます」
 エム氏は一直線に「子供動物園」へと向かい、錆の浮いた鉄格子の前で停止しました。すると、黒くて長い手が檻の中からのびてきました。エム氏は躊躇せずに、その手と握手をします。ひんやりとした指先の感触。
「おはよう。今朝のご気分、いかがかな?」
 挨拶するエム氏。返事の代わりに、皺だらけの手がワイシャツからのびた手を優しく握り返してきます。檻の奥では、茶色の瞳が微笑するエム氏を映していました。
「朝飯は、もう済ませただろうけれど、私のいつもの気持ちだよ。受け取ってくれるよね」
 エム氏はポケットからバナナを取り出しました。黒い手は、それを受け取ると、ゆっくりと皮をむき始めました。そして、まばゆい果肉を、その口に運んだのです。エム氏は目を細くして見つめています。すると、後ろから幼児の黄色な声がしました。
「あっ。チンパンジーがいるよ、お母さん」
 若い母親連れが大勢の幼児と、やってきます。エム氏は急いで手にしていた二本目のバナナをポケットにしまいました。
「閉店前にまたくるよ。待っててくれるよね」
 エム氏はデパートの屋上を、あとにしました。夕方まで、これから長い時間を、どうやってつ潰そうかと思案しながら。
 真っ赤な夕焼けに、年老いたチンパンジーと語るエム氏の影が長くのびています。人気の消えた小さな動物園。やがて飼育係が「閉店」を伝えにやってくるのです。
 ある日、エム氏は持病が悪化して手術することになってしまいました。それは長い入院となりました。しばらくの間、町から都会から、いつもの「おはよう」が、ひとつだけ聞かれなくなりました。
「あら、おはようございます。まあ、退院なさったんですのね。おめでとうございます」
 隣の奥さんに会釈する少しやつれたエム氏。
「おはようございます。おはようございます」
 私鉄駅の改札口では、新人の駅員が真新しい制服のコメツキバッタになっています。「おはようございます。おや、お痩せになられましたね。お元気でいらっしゃいましたか」
 煙草をやめたエム氏は、コーヒーの煎じたばかりの香りだけを楽しみます。
「おはようございます。おはようございます」 デパートの制服は新しい季節の到来を伝え、新人のパート店員や屋上のアルバイトからも、いつもの朝の挨拶は聞こえてきません。エム氏は少し躊躇しながら檻の前に立ちました。
「おはよう…」
 心配そうにエム氏は声をかけました。すると、檻の中から真っ黒に変色したバナナが一本、差し出されたのです。それと同時にエム氏を発見した飼育係が飛んできました。
「やあ、よかった。お元気だったんですね。実は、ウチのチンプが大変あなたのことを心配していましてね。見てください、檻の中。あれ、腐ったバナナの山なんです。みんな、あなたのために食べないでいたんですよ」
 エム氏は黙って茶色の瞳を見つめながら、一本の腐ったバナナを受け取りました。それはエム氏への世界一の「おはよう」でした。



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